
ヴィルヌーヴによる一連の作品の共通点として、父性や母性を主なテーマしていることがあげられるだろう。ある意味ラース・フォン・トリアー作品にも言えることだが、おそらくドゥニ少年は(トリアー一家とは違って)しごく真っ当な両親によって愛情を受けながら育てられたのではないだろうか。なぜかはわからないが彼の撮った映画にはそんな印象がつきまとうのである。
初期の頃に撮られた本作のテーマもずばり“母性”。おそらくヴィルヌーブの心の中に<フェミニズム映画を撮る>という目論見が最初からあったのではないだろうか。『ワンダー・ウーマン』のようなフェミニズム剥き出しの映画を撮れば、女性蔑視なメンズの皆さんから反発を喰らうことは必至。受験失敗をフェミニズムのせいにする銃乱射男と対峙する理系女を主人公にすえれば、万人納得のフェミニズム映画になり得るのではないか。トラウマを乗り越え社会復帰し、苦悩の末に出産を決意するたくましき“母性”に、唾棄する者などまずいないだろう、と。
そんな構成の上手さもさることながら、黒澤明やノーランを思わせるクロスカッティンッグ編集、カメラスピードを微妙に変化させて、銃乱射事件という割りと単調なシナリオに緊張感を与えている。そのテクニックは長編2作目にしてすでにベテラン監督の域に達しているといっても過言ではない。わざわざモノクロで撮影した理由は、本作が単なる血生臭いサスペンス・ホラーと評されないように、ヴィルヌーヴが配慮したためだろう。
ついでにここで、ストーリーにちゃんと絡んでいる、各所に散りばめられたメタファーにもふれておきたい。
・エントロピーの法則や車上に積もった雪→銃乱射男のたまりにたまったストレス、又は男性の女性に対する根深い偏見
・ゲルニカのレプリカ→無差別(実際には女性だけを狙っている)な暴力への怒り
・友人の口をおさえて死んだふりをする主人公→男に意見することを嫌う女性一般の気質
・冒頭のコピー機のフラッシュと対になったエンディングの逆さ天上ライト→女性が社会に羽ばたくための滑走路
と、全てにおいて平均以上の合格点を叩き出すヴィルヌーヴ。
だがトリアーにはあってヴィルヌーヴにないものが一つだけ。それは、トリアーのいう“靴の中に入った小石”、映画を見終わった時に感じるなんともいえない違和感を、ヴィルヌーヴ作品にはあまり感じないのである。言い換えるならば、監督自身がもつアクの強さというべきか、世間一般に対する不信感の強さというべきか。そこを乗り越えてこそ真の映画監督となりうるのだ。ドゥニよ(一応年下)羽ばたけ、巨匠への道はまだまだ険しいのだぞ(なんつって)。
静かなる叫び
監督 ドゥニ・ヴィルヌーヴ(2009年)
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