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フェリーニによれば、本作は娼婦カビリアの冒険談であり、男に裏切られすべてを失ってもなお生きる希望を失わない女性を描きたかったとのこと。貢いだ男に金の入ったバックをもぎとられ川に突き落とされる映画冒頭シーンなどは、チャップリンの『街の灯』へのオマージュらしく、カビリアがいろいろな場所で経験するファンタジックなエピソードをオムニバスのようにつないだのも、同作品をまねた構成らしい。しかし、『街の灯』に出てくる複数のエピソードがなめらかな線形を描いているのに対し、この『カビリアの夜』は非線形の分散型、文学的解釈を好む当時の批評家の間で酷評を浴びせられたらしい。映画を見ていて川で溺れ死んだ女が見た死に際の夢なのかもと勘違いしたくらい、それぞれのエピソードはバラバラだ。
だが、(前述の『ローマで夜だった』の主人公エスペリアと同様の)本作のカビリアがモチーフにしているある歴史上の人物名に気がつくと、ググっと見ごたえがましてくる。劇中こっそりあかされるカビリアの本名、洞窟に暮らす貧民にお菓子を配って回る男=キリストとの出会い、聖母マリアに毒づきながらも物欲にまみれた今の生活を何とか変えようと神にすがるカビリア・・・・極めつきは、カビリアから金を奪って逃走するオスカーの職業が、あの裏切り者ユダと同じ会計士という点である。ここまで説明するともうおわかりかもしれないが、キリストの愛人兼お世話係として伝えられている“娼婦マグダラのマリア”が、カビリアの元ネタである可能性が非常に高いのである。
師匠であるロッセリーニは舞台をナチス占領下のローマに置き換えて、より“娼婦マグダラのマリア”感を鮮明に投影したキャラクターとして、『ローマで夜だった』のエスペリア像を構築したのだろう。当然、ナチスに銃殺される恋人はキリストであり、エスぺリア一味をナチスに密告する足の悪い元聖職者はユダとみて間違いない。今でいえば著作権問題に発展しそうなアイデアのパクリ合戦ではあるが、見ている者さえ同一モチーフとは簡単には気づかせない演出は、お互い単なる物まねには終わっていないイタリア人ならではのオリジナルセンスを感じさせるのである。
さて、恋人、家、そして財産をすべて失ったマグダラのマリアことカビリヤは、絶望のはてに最後天に召されてしまったのだろうか。林からふいにあらわれた陽気な音楽隊の女がこう叫ぶのである。「まだ帰る(死ぬ)のは早すぎるわ」妖精にも天使にも見える彼ら彼女たちに励まされ、カビリアは一歩一歩着実にいばらの道を歩みはじめるのである。『ローマで夜だった』のエスペリアが待ちに待った英米連合軍(神)によって罪の意識から解放されたように、はたまた、『街の灯』のチャップリンに思わぬビッグ・サプライズが待っていたように、カビリアにもきっといつか幸せな日が訪れたにちがいない。
カビリアの夜
監督 フェデリコ・フェリーニ(1957年)
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