
彼女(エマニュエル・リヴァ)は映画女優で、日仏合作反戦映画撮影のためヒロシマを訪れていた。彼(岡田英次)は建築家で、ヒロシマに住んでいた家族を原爆で亡くしている。ホテルの部屋で体を重ね合わせた後、彼女がフランスに帰るまでの24時間が、ほぼ2人の会話のみで進行していく。
映画冒頭、原爆の影響で髪の毛が抜け落ちていく女性や、皮膚がケロイド状に焼け爛れた子供の無残なドキュメンタリーシーンが延々と続いていく。彼あるいは日本人にとって、それは決して忘れてはならない戦争の傷跡だ。
一方の彼女も、生まれ故郷のヌベールで敵のドイツ兵との恋に落ちたことから、地下室へ幽閉され村八分にあったつらい過去を彼に話はじめる。彼との情事で、恋人を忘れようとしていた不実に気づいた彼女は、「ヌベールに戻る」と彼に切り出すが…。
過去の初恋(ヌベール)と新しい恋(ヒロシマ)の間で揺れ動く彼女の心象風景をあらわしているかのように、カメラはヌベールとヒロシマの街並を交互に映し出す。変わってしまった彼女を引き止める術もない彼は彼女の後を着け回し「君を忘れられない」ということしかできない。ラスト、ふっ切れた表情で2人がお互いを一般名詞で呼び合うシーンはとても印象的だ。
初めて本作を見た時は、はっきりいって理解不能とういうのが正直な感想。「きみはヒロシマを見ていない」という台詞とラストシーンがいくら考えてもつながらなかったからだ。しかし、こうして改めて見直してみると、アラン・レネの実験的ともいえる反戦へのグローバルな思いが結実した映画のように思えてきたのである。
「ヤリすぎて過去の辛いことなどすっかり忘れちまったのさ」とか「外国人のくせに被爆者の気持ちがわかるわけないよ」と切り捨てるのは簡単だ。むしろ本作はそんなステレオタイプ思考への疑問を起点として制作された映画のような気がする。
同じような戦争体験があり(いやそれがなくても)相手のことをあるがまま受け入れる気持さえあれば、辛い過去の記憶を忘却の彼方へ置き去りにすることなしに、戦争で受けた痛みを共有し分かち合いながら前進することができるのではないか。
無論SEXはあくまでも方便であって本作における必要十分条件ではない。当初計画されていたドキュメンタリー映画として生々しい映像だけを綴らなくとも、お国がちがう者同士が価値観を共有しながら未来へつなげていく可能性について言及した1本のように思えるのだ。
二十四時間の情事
監督 アラン・レネ(1959年)
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