goo blog サービス終了のお知らせ 

ネタばれせずにCINEるか

かなり悪いオヤジの超独断映画批評。ネタばれごめんの毒舌映画評論ですのでお取扱いにはご注意願います。

八犬伝

2025年02月01日 | ネタバレなし批評篇

CGアニメーター出身の曽利文彦監督が、映画化の企画を長年あたためていたという山田風太郎原作『八犬伝』。曲亭馬琴原作『南総里見八犬伝』=虚構と、馬琴&葛飾北斎の交流=現実を並列に描いた奇想天外な作品だ。調べてみるとあな意外、馬琴と北斎の間には実際交流があったようで、本八犬伝以外の読本には、北斎がかなりの量の挿し絵を馬琴に提供しているらしい。映画では『八犬伝』のストーリーを来訪した北斎につど聞かせて挿し絵を描かせる、という設定になっているが、実際には馬琴の描いた下絵を元に北斎が本格的な挿し絵に仕上げる工程だったという。

考えてみればこの馬琴(役所広司)と北斎(内野聖陽)の関係は、脚本家と映画監督の関係に似ているわけで、劇中登場する馬琴のライバル鶴屋南北(立川談春)との“虚と実”を巡る白熱した論説バトルなどを見ていると、本作は曽利監督自身の映画作りに対する考え方が反映された1本なのだろう。劇中劇『東海道四谷会談』を、南北は“実×虚”と自己評価するが、馬琴は“実-虚”で有害でさえあると批判する。馬琴の描く勧善懲悪な嘘臭い世界よりも、南北の『四谷怪談』のような悪因善果、善因悪果の物語の方がよっぽど現実に則していて意味があるというのだ。

ハリウッド映画に例えるならば、マーベルやDCのスーパヒーロー映画なんて嘘ばっかり、それよりも純粋な悪を描いた『エクソシスト』や『エイリアン』の方がよっぽど真実味があるということなのだろう。しかし馬琴は、善が愚弄され悪が栄える世の中だからこそ(たとえつじつま合わせと批判されようと)勧善懲悪な虚構が必要なのだと頑なに信じて執筆を続けるのだ。現実世界では医師となった息子宗伯(磯村勇斗)が病死し、失明の危機に瀕していた馬琴自身の筆も止まりがちに。そんな時、宗伯の友人でもあった渡辺崋山から「“虚”を最後まで押し通せば“実”になる」と馬琴は勇気づけられる。

この映画をみながらラナ・ウォシャウスキーの『マトリックス・レザレクションズ』をずっと思い出していた私。トリロジーのコアなファンから徹底的にこき下ろされたシリーズ完結編である。勧善懲悪なトリロジーの世界観から一転、現実世界で伝説のゲームクリエイターにおさまっていたネオは、虚と実の狭間で次回作=レザレクションズの方向性について大いに苦悩するのである。前回までの虚=マトリックスに固執すれば“焼き直し”と非難され、実=現実にそった形に新しくつくりかえれば“SWシリーズ”同様の“上書き”とオールドファンからそっぽを向かれること必至だったからである。

ならば虚と実の両者を同等に並べてみればいかがなものか。その結果、現実=ザイオンが虚=マトリックスに勝つこともなく、はたまた現実がマトリックスに飲み込まれることもない、まか不思議な傑作が出来上がったのである。そこへいくと本作は、伏姫(土屋太鳳)や里見の殿様とまったく面識のない八犬士が、怨霊玉梓(栗山千明)と命懸けで戦う理由が確かに希薄である。実が虚に報われるという意のラストシーンもわざとらしいことこの上ない。北斎の「絵になる」で余韻を残したままやめときゃ良かったのである。

おそらく、主君の敵討ちを見事にはたした『忠臣蔵』とその敵討ちから逃げた男が嫁の👻に呪い殺される『四谷怪談』ほどの相関関係が、『八犬伝』と馬琴の執筆生活との間にはっきり見えてこなかったことが最大の原因と思われるのである。黒澤明の『七人の侍』のごとく、ある目的のために一人また一人と仲間が増えていく『八犬伝』に対し、一人また一人と息子や家族や友人を失って孤独化していく馬琴の晩年描写が今ひとつ丁寧に描けていないため、観客はうまく両者を対比できないのである。

八犬伝
監督 曽利文彦(2024年)
オススメ度[]


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 腑抜けども、悲しみの愛を見せろ | トップ | リアルペイン~心の旅~ »
最新の画像もっと見る