
前作『桜桃の味』で自殺願望男を主人公にすえ、今までの作風に若干の修正を加えたキアロスタミ。本作は、僻村でとり行われる特異な葬儀を取材しに訪れたTVディレクターの目を通して、“死”を真正面から見つめた意欲的な作品といえるだろう。
岩山の谷合にへばりつくように築かれた住居群。そこで暮らす人々の生活はお世辞にも豊かとは言い難く、畑で収穫されたわずかばかりの穀物や果実、山羊から絞ったミルクによってかろうじて生計を立てているようだ。死の床についた老婆の噂を聞きつけやってきたヘザードたちを、貧しい生活ながら心からもてなす親切な村人たち。中々死なない老婆に嫌気がさしヘザードは苛立ちを隠せなくなっていく…
この映画には“死”を待つ人が複数登場する。臨終が近い老婆をはじめ、その死を待ち望むヘザードらTVクルーたち、危うく生き埋めになりかけた老婆の墓掘り人、子供の死に責任を感じ自分の顔を傷つけたという教師の母親…死と対比させて生きる意味を問いかけた映画と解釈されることが多い本作だが、どちらかというと死そのものについてキアロスタミが考察した作品のように思えるのである。
考えてみると、人間生まれてからずっと死を待ち続けている存在であり、生きている間にいかに生を謳歌しようとも、人間最期には必ず死が訪れるのである。ヘザード自身は勿論、出産の翌日から家事にいそしむ子沢山の婦人、毎日パンを運んで来てくれる従順な少年、暗闇の中で乳を搾ってくれたイスラム戒律を厳格に守る少女、そして墓場を彷徨っていた長生きの亀にさえ、いずれ死が必ず訪れるのである。
一般的に言って人が死ぬ映画が圧倒的に多いのも“死”がもつその絶対的リアリティ故であり、いかなるフィクションの“生”を持ってきたところで“死”に対抗することできない。キアロスタミは(遅らばせながら)そこに気づいたのではないだろうか。葬儀の取材を放棄してまるで(死から)逃げるように村を立ち去ったヘザードは、文字通り“骨(サジ)を投げる”のである。本作はいわば死がもつリアリティに屈した映画監督のストーリーなのかもしれない。
風に吹くまま
監督 アッバス・キアロスタミ(1999年)
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