このところ飲み会や外泊が続いててまったく投稿ができませんでした。
まぁその間にネタ切れを打開するために少々充電しましたけどね(笑)。
以前に音楽の「様式」といった事を書いたよね。本日は現代に入ってから音楽で用いられるようになった、比較的新しい様式をテーマに取り上げてみようと思う。
その様式とは、ズバリ「フェイドアウト」。だんだん音を小さくしていって、消えるように曲が終わる事。
録音された演奏でしかありえない様式ですが、皆さんこれをどう思いますか?。
ロックやポップスでは頻繁に用いられているよね。クラシックで用いられている事は恐らくないでしょう。ジャズではたまーにある。
ジャズの雑誌なんかでは「曲のエンディングがフェイドアウトで終わってしまっているのは残念だが」なんて論調をしばしば目にする事がある。また、リスナー側にも「安易にフェイドアウトで終わるような手抜きはして欲しくない」とか言ってる人はいるよね。
ジャズの場合は特にアドリブが第一義とされる事が多いので、ファーストテイクの新鮮な感覚を大事にする為に、エンディングで少々のミスがあった場合でもそのテイクを採用して、ミスの部分をフェイドアウトで消してしまうという用いられ方をする事が多いというのは聞いた事がある。
言ってみれば誤魔化しのためのフェイドアウト。
かく言う僕も最近Benny Green(ベニー・グリーン、p)のアルバムを聴いていて「をを!、フェイドアウトで終わってやがる。なんかミスがあったのか?」なんて、反射的に思ってしまった事がある。ジャズリスナーを数年間でもやってるとこの習性は身につくよね(笑)。
フェイドアウト否定派の考え方は「生演奏が至上であって、ファイドアウトはナマではありえない方法だから邪道である」といったところでしょう。
でもどうなんだろ。
他のジャンルの音楽ではごくごく普通に使われてて、それほど違和感はないよね。
車社会のアメリカなんかでは、運転中に心地良く聴けるように耳ざわりなダイナミクスを排するというのはほぼセオリーとしてあるようで、そのために転調とフェイドアウトは当たり前。
アメリカだけでなくとも、録音されたものを販売(もしくは放送)するという市場の方が、生演奏の市場よりもはるかに大きいのは、どこの国でも明白だと思うんだ。
「録音、調整のうえ販売する」という前提がある以上は、そこに機械的な音響効果を付加して完成度を高めるという考え方が出てくるのも当然のような気もするんだよね。
これはフェイドアウトだけでなく、オーバーダブやコーラス、リバーブなんかの、マスタリング時点でのエフェクトすべてに言える事だね。
「生演奏が至上である」って、まぁそうかもしれないけど、「録音された商品」を購入して聴いていて「生演奏にはない音だから邪道だ」なんてのは、ちょっと頓珍漢な感じがするんだけど・・・・・。
それ言ってしまえば、歌以外のすべての楽器は、電気的であるないは別としても、人工的に生み出されたテクノロジーによるものであってさ、全部の楽器が邪道じゃん。
極論かな・・・・・。
例えば僕の大好きなThe Manhattan Transufer(マンハッタン・トランスファー、Chorus Group)のアルバムで、遠くから歩いてくるようなフェイドインで始まって、歩いて遠ざかっていくようなフェイドアウトで終わる曲があるのね。
その曲は「1人の紳士は家族と共にこの荒廃した社会を横切って人生を歩み続けていく」といった趣旨の曲で、かなり木霊のようなフェイドイン、フェイドアウトがはまってたのさ。
普通に始まって普通に終わってたら、この「道なかば、重い足取りで歩き続けてゆく」といった感傷は出せなかったんじゃないかと。
「The Offbeat Of Avenues」というアルバムの「Gentleman With A Family」という曲ね。
まぁこれはひとつの例なんだけど、誤魔化しのためのエフェクトは別として、「効果を狙って」のフェイドアウトって確かに存在するんだよ。
録音のうえ調整されたものを商品として売りに出すことが前提である以上、必然性さえあればフェイドアウトだってひとつの方法論ではあると、僕は思っています。
不自然な、明らかに誤魔化しのフェイドアウトもあるけどね(笑)。
好みの上では、僕も生演奏に近い音を作って欲しいという想いはありますし、エレクトリックな音色は比較的好みません。
でもそれと「方法論そのものを否定する」というのは次元の違った話なんだよね。
スタジオワークで食べている人たちなんかはフェイドアウトの曲をレコーディングする場合、あらかじめマイクを切る小節数を決めておいてそこまできちんと演奏して録りきりましょうと、あらかじめ打ち合わせておいて演るのね。
で、その音が消える直前のタイミングでちょっとシャレたフレーズを入れてみたり、倍テンポにしてみたりといった「遊び」をやる事があるんだそうね。
今ちょっと実例は思いつかないけど、リフレインで消えていく曲を、ステレオのボリュームを上げていきながら追いかけていくと、ごくたまに結構意外なフレーズや仕掛けが聴けたりします。
職人の遊び心といった感じで、ちょっとカッコイイよね。
大袈裟かもしれないけど、こういったテクノロジーの進歩によってもたらされた「新しい様式」によって開けてくる可能性というのも、音楽にはあるんですね。
ただ気をつけないと、その音量のまま次のトラックの出だしがガガーン!と入ってきて、アンプ跳ばしたりするけどね(笑)
本日の安眠盤、Eric Dolphy(エリック・ドルフィー、as,bcl,fl)の「Outward Bound」
ではでは。
まぁその間にネタ切れを打開するために少々充電しましたけどね(笑)。
以前に音楽の「様式」といった事を書いたよね。本日は現代に入ってから音楽で用いられるようになった、比較的新しい様式をテーマに取り上げてみようと思う。
その様式とは、ズバリ「フェイドアウト」。だんだん音を小さくしていって、消えるように曲が終わる事。
録音された演奏でしかありえない様式ですが、皆さんこれをどう思いますか?。
ロックやポップスでは頻繁に用いられているよね。クラシックで用いられている事は恐らくないでしょう。ジャズではたまーにある。
ジャズの雑誌なんかでは「曲のエンディングがフェイドアウトで終わってしまっているのは残念だが」なんて論調をしばしば目にする事がある。また、リスナー側にも「安易にフェイドアウトで終わるような手抜きはして欲しくない」とか言ってる人はいるよね。
ジャズの場合は特にアドリブが第一義とされる事が多いので、ファーストテイクの新鮮な感覚を大事にする為に、エンディングで少々のミスがあった場合でもそのテイクを採用して、ミスの部分をフェイドアウトで消してしまうという用いられ方をする事が多いというのは聞いた事がある。
言ってみれば誤魔化しのためのフェイドアウト。
かく言う僕も最近Benny Green(ベニー・グリーン、p)のアルバムを聴いていて「をを!、フェイドアウトで終わってやがる。なんかミスがあったのか?」なんて、反射的に思ってしまった事がある。ジャズリスナーを数年間でもやってるとこの習性は身につくよね(笑)。
フェイドアウト否定派の考え方は「生演奏が至上であって、ファイドアウトはナマではありえない方法だから邪道である」といったところでしょう。
でもどうなんだろ。
他のジャンルの音楽ではごくごく普通に使われてて、それほど違和感はないよね。
車社会のアメリカなんかでは、運転中に心地良く聴けるように耳ざわりなダイナミクスを排するというのはほぼセオリーとしてあるようで、そのために転調とフェイドアウトは当たり前。
アメリカだけでなくとも、録音されたものを販売(もしくは放送)するという市場の方が、生演奏の市場よりもはるかに大きいのは、どこの国でも明白だと思うんだ。
「録音、調整のうえ販売する」という前提がある以上は、そこに機械的な音響効果を付加して完成度を高めるという考え方が出てくるのも当然のような気もするんだよね。
これはフェイドアウトだけでなく、オーバーダブやコーラス、リバーブなんかの、マスタリング時点でのエフェクトすべてに言える事だね。
「生演奏が至上である」って、まぁそうかもしれないけど、「録音された商品」を購入して聴いていて「生演奏にはない音だから邪道だ」なんてのは、ちょっと頓珍漢な感じがするんだけど・・・・・。
それ言ってしまえば、歌以外のすべての楽器は、電気的であるないは別としても、人工的に生み出されたテクノロジーによるものであってさ、全部の楽器が邪道じゃん。
極論かな・・・・・。
例えば僕の大好きなThe Manhattan Transufer(マンハッタン・トランスファー、Chorus Group)のアルバムで、遠くから歩いてくるようなフェイドインで始まって、歩いて遠ざかっていくようなフェイドアウトで終わる曲があるのね。
その曲は「1人の紳士は家族と共にこの荒廃した社会を横切って人生を歩み続けていく」といった趣旨の曲で、かなり木霊のようなフェイドイン、フェイドアウトがはまってたのさ。
普通に始まって普通に終わってたら、この「道なかば、重い足取りで歩き続けてゆく」といった感傷は出せなかったんじゃないかと。
「The Offbeat Of Avenues」というアルバムの「Gentleman With A Family」という曲ね。
まぁこれはひとつの例なんだけど、誤魔化しのためのエフェクトは別として、「効果を狙って」のフェイドアウトって確かに存在するんだよ。
録音のうえ調整されたものを商品として売りに出すことが前提である以上、必然性さえあればフェイドアウトだってひとつの方法論ではあると、僕は思っています。
不自然な、明らかに誤魔化しのフェイドアウトもあるけどね(笑)。
好みの上では、僕も生演奏に近い音を作って欲しいという想いはありますし、エレクトリックな音色は比較的好みません。
でもそれと「方法論そのものを否定する」というのは次元の違った話なんだよね。
スタジオワークで食べている人たちなんかはフェイドアウトの曲をレコーディングする場合、あらかじめマイクを切る小節数を決めておいてそこまできちんと演奏して録りきりましょうと、あらかじめ打ち合わせておいて演るのね。
で、その音が消える直前のタイミングでちょっとシャレたフレーズを入れてみたり、倍テンポにしてみたりといった「遊び」をやる事があるんだそうね。
今ちょっと実例は思いつかないけど、リフレインで消えていく曲を、ステレオのボリュームを上げていきながら追いかけていくと、ごくたまに結構意外なフレーズや仕掛けが聴けたりします。
職人の遊び心といった感じで、ちょっとカッコイイよね。
大袈裟かもしれないけど、こういったテクノロジーの進歩によってもたらされた「新しい様式」によって開けてくる可能性というのも、音楽にはあるんですね。
ただ気をつけないと、その音量のまま次のトラックの出だしがガガーン!と入ってきて、アンプ跳ばしたりするけどね(笑)
本日の安眠盤、Eric Dolphy(エリック・ドルフィー、as,bcl,fl)の「Outward Bound」
ではでは。