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ルーズベルト大統領の昭和天皇宛親電 1941年朝河寛一とウォーナー 日本の禍機を考えませう!

2020-08-15 04:09:36 | 世界の架け橋

 「日本人は古来の危機毎(ごと)に、鮮明の反省を以(もっ)て過去の誤(あやまり)をしまず 捨去り、将来の光明に向ふ」(朝河貫一)

*朝河寛一は、日米開戦の直前には「成功の見込みは百万に一つ」と知りつつアメリカ政府の要人に働きかけ、フランクリン・ルーズベルト大統領から昭和天皇への親書を送ることで戦争を回避しようと考え、その草案を書いた。

朝河寛一は、日本人初のイェール大学教授に就任する。昭和16年、 日米開戦を避けるため、天皇宛米国大統領親書草案をラングドン・ウォーナーに手渡す。昭和17年、イェール大学名誉教授となる。

ルーズベルト大統領の昭和天皇宛親電

President Roosevelt’s Letter to Emperor Hirohito

アメリカ合衆国大統領フランクリン・D・ルーズベルト
訳:日本国外務省

1941年12月6日作成

日本国 天皇陛下

約一世紀前米国大統領ハ日本国
天皇ニ対シ書ヲ致シ米国民ノ日本国々民ニ対スル友交ヲ申出タル処右ハ受諾セラレ爾来不断ノ平和ト友好ノ長期間ニ亘リ両国民ハ其ノ徳ト指導者ノ叡智ニヨリテ繁栄シ人類ニ対シ偉大ナル貢献ヲ為セリ

陛下ニ対シ余カ国務ニ関シ親書ヲ呈スルハ両国ニ取リ特ニ重大ナル場合ニ於テノミナルカ現ニ醸成セラレツツアル深刻且広汎ナル非常事態ニ鑑ミ玆ニ一書ヲ呈スヘキモノト感スル次第ナリ

日米両国民及全人類ヲシテ両国間ノ長年ニ亘ル平和ノ福祉ヲ喪失セシメントスルカ如キ事態カ現ニ太平洋地域ニ発生シツツアリ右情勢ハ悲劇ヲ孕ムモノナリ米国民ハ平和ト諸国家ノ共存ノ権利トヲ信シ過去数ヶ月ニ亘ル日米交渉ヲ熱心ニ注視シ来レリ吾人ハ支那事変ノ終息ヲ祈念シ諸国民ニ於テ侵略ノ恐怖ナクシテ共存シ得ルカ如キ太平洋平和カ実現セラレンコトヲ希望シ且堪ヘ難キ軍備ノ負担ヲ除去シ又各国民カ如何ナル国家ヲモ排撃シ若クハ之ニ特恵ヲ与フルカ如キ差別ヲ設ケサル通商ヲ復活センコトヲ念願セリ右大目的ヲ達成セシカ為ニハ
陛下ニ於カレテモ余ト同シク日米両国ハ如何ナル形式ノ軍事的脅威ヲモ除去スルコトニ同意スヘキコト明瞭ナリト信ス

約一年前
陛下ノ政府ハ「ヴイシー」政府ト協定ヲ締結シ之ニ基キ北部仏領印度支那ニ同地北方ニ於テ支那軍ニ対シ行動シ居リタメ日本軍保護ノ為ニ五、六千ノ軍隊ヲ進駐セシメタリ、而シテ本年春及夏「ヴイシー」政府ハ仏領印度支那共同防衛ノ為メ更ニ日本部隊ノ南部仏印進駐ヲ許容セリ

余ハ仏領印度支那ニ対シ何等ノ攻撃行ハレタルコトナク又攻撃ヲ企図セラレタルコトナシト言明シテ差支ナシト思考ス

最近数週間日本陸海空軍部隊ハ夥シク南部仏領印度支那ニ増強セラレタルコト明白トナリタル為メ他国ニ対シ印度支那ニ於ケル集結ノ継続カ其ノ性質上防御的ニ非ストノ尤モナル疑惑ヲ生セシムルニ至レリ

右印度支那ニ於ケル集結ハ極メテ大規模ニ行ハレ又右ハ今ヤ同半島ノ南東及南西端ニ達シタルヲ以テ比島、東印度数百ノ島嶼、馬来及泰国ノ住民ハ日本軍カ之等地方ノ何レカニ対シ攻撃ヲ準備乃至企図シ居ルニ非スヤト猜疑シツツアルハ蓋シ当然ナリ之等住民ノ総テカ抱懐スル恐怖ハ其ノ平和及国民的存立ニ関スルモノナルカ故ニ斯ル恐怖ハ当然ナルコトハ
陛下ニ於カレテモ御諒解アラセラルル所ナリト信ス余ハ攻撃措置ヲ執リ得ル程度ニ人員ト装備トヲ為セル陸、海及空軍基地ニ対シ米国民ノ多クカ何故ニ猜疑ノ眼ヲ向クルカヲ
陛下ニ於カセラレテハ御諒解相成ルヘシト思惟ス

斯ル事態ノ継続ハ到底考ヘ及ハサル所ナルコト明カナリ余カ前述シタル諸国民ハ何レモ無限ニ若クハ恒久ニ「ダイナマイト」樽ノ上ニ座シ得ルモノニ非ス

若シ日本兵カ全面的ニ仏領印度支那ヨリ撤去スルニ於テハ合衆国ハ同地ニ侵入スルノ意図毫モナシ

余ハ東印度政府、馬来諸政府及泰国政府ヨリ同様ノ保障ヲ求メ得ルモノト思考シ且支那政府ニ対シテスラ同様保障ヲ求ムル用意アリ斯クシテ日本軍ノ仏印ヨリノ撤去ハ全南太平洋地域ニ於ケル平和ノ保障ヲ招来スヘシ

余カ 陛下ニ書ヲ致スハ此ノ危局ニ際シ 陛下ニ於カレテモ余ト同様暗雲ヲ一掃スルノ方法ニ関シ考慮セラレンコトヲ希望スルカ為ナリ、余ハ
陛下ト共ニ日米両国民ノミナラス隣接諸国ノ住民ノ為メ両国民間ノ伝統的友誼ヲ恢復シ世界ニ於ケル此ノ上ノ死滅ト破壊トヲ防止スルノ神聖ナル責務ヲ有スルコトヲ確信スルモノナリ

千九百四十一年十二月六日

「ワシントン」ニ於テ

「フランクリン・デイ・ルーズヴエルト」

*H*is Imperial Majesty Hirohito,Emperor of Japan

Only in situations of extraordinary importance to our two countries need I
address to Your Majesty messages on matters of state. I feel I should now
so address you because of the deep and far-reaching emergency which appears
to be in formation.

Developments are occurring in the Pacific area which threaten to deprive
each of our nations and all humanity of the beneficial influence of the
long peace between our two countries. These developments contain tragic
possibilities.

The people of the United States, believing in peace and in the right of
nations to live and let lives have eagerly watched the conversations
between our two Governments during these past months. We have hoped for a termination of the present conflict between Japan and China. We have hoped that a peace of the Pacific could be consummated in such a way that
nationalities of many diverse peoples could exist side by side without fear
of invasion; that unbearable burdens of armaments could be lifted for them
all; and that all peoples would resume commerce without discrimination
against or in favor of any nation.

I am certain that it will be clear to Your Majesty, as it is to me, that in
seeking these great objectives both Japan and the United States should
agree to eliminate any form of military threat. This seemed essential to
the attainment of the high objectives.

More than a year ago Your Majesty's Government concluded an agreement with the Vichy Government by which five or six thousand Japanese troops were permitted to enter into Northern French Indochina for the protection of Japanese troops which were operating against China further north. And this Spring and Summer the Vichy Government permitted further Japanese military forces to enter into Southern French Indochina for the common defense of French Indochina. I think I am correct in saying that no attack has been made upon Indochina, nor that any has been contemplated.

During the past few weeks it has become clear to the world that Japanese
military, naval and air forces have been sent to Southern Indo-China in
such large numbers as to create a reasonable doubt on the part of other
nations that this continuing concentration in Indochina is not defensive in
its character.
Because these continuing concentrations in Indo-China have reached such
large proportions and because they extend now to the southeast and the
southwest corners of that Peninsula, it is only reasonable that the people
of the Philippines, of the hundreds of Islands of the East Indies, of
Malaya and of Thailand itself are asking themselves whether these forces of
Japan are preparing or intending to make attack in one or more of these
many directions.

I am sure that Your Majesty will understand that the fear of all these
peoples is a legitimate fear in as much as it involves their peace and
their national existence. I am sure that Your Majesty will understand why
the people of the United States in such large numbers look askance at the
establishment of military, naval and air bases manned and equipped so
greatly as to constitute armed forces capable of measures of offense.

It is clear that a continuance of such a situation is unthinkable. None of
the peoples whom have spoken of above can sit either indefinitely or
permanently on a keg of dynamite.

There is absolutely no thought on the part of the United States of invading
Indo-China if every Japanese soldier or sailor were to be withdrawn
therefrom.
I think that we can obtain the same assurance from the Governments of the
East Indies, the Governments of Malaya and. the Government of Thailand. I
would even undertake to ask for the same assurance on the part of the
Government of China. Thus a withdrawal of the Japanese forces from
Indo-China would result in the assurance of peace throughout the whole of
the South Pacific area.

I address myself to Your Majesty at this moment in the fervent hope that
Your Majesty may, as I am doing, give thought in this definite emergency to
ways of dispelling the dark clouds. I am confident that both of us, for the
sake of the peoples not only of our own great countries but for the sake of
humanity in neighboring territories, have a sacred duty to restore
traditional amity and prevent further death and destruction in the world.

May God have your Majesty in his safe and holy keeping!

FRANKLIN DELANO ROOSEVELT

To Emperor Hirohito of Japan , 6 December 1941

ルーズベルトが昭和天皇に送った「戦争回避の親電」(訳文)
日本人が知らなくてはならない本当の昭和史
http://kisarazu.org/?page_id=58 より一部転載

だが、両国が非常事態に直面していると考えるからこそ、あえて今、陛下に現状認識の必要性を訴えることに駆られています。ことは重大で広範囲に影響を及ぼす緊急事態が刻々と差し迫っていると感じるからです。
両国の長期平和関係は両国に恩恵をもたらすだけでなく、全世界平和や人類繁栄にも貢献できるものですが、今、太平洋地域で起こりつつある緊急事態によって危ぶまれております。この緊急事態は悲惨な結果を引き起こすかもしれません。
米国民は平和を重んじ国民の生きる権限を重視する眼差しで、この数カ月間の日米政府のやり取りを強い関心を持って見守ってきました。米国民は日中間の戦闘が集結することを望んでおりました。また、太平洋地域においても、この地域の国々が他国の侵攻を憂慮することなく隣国同士共存でき、軍備保持という過酷な重圧からも開放され、そして差別措置や優遇措置などの存在しない通商関係が再開される形で同地域に平和がもたらされることを望んでいました。
私にとって明快であるように、陛下にとってももう明快だと確信していますが、これらの命題を成就させるために、日米両国はいかなる軍事的挑発行為を互いに行わないことに同意すべきです。これが命題解決には必須だと感じます。

一年以上前、陛下の政府はヴィシー政権と条約を結びました。北部仏印の北部奥地で中国軍と交戦中の日本軍に援軍を送り込むという名目で日本軍兵士5、6千人を北部仏印に配備するという条約です。だが、今年春と夏にはさらにヴィシー政権は、仏印全体の防衛という名目で日本軍が南部仏印にも軍備を配備することを認めました。
もっかのところ、仏印に戦火は勃発しておらず、そのような計画もないだろうことは間違いないでしょう。だが、周辺国が疑問視するほど大量の日本陸海空軍が南部仏印にも配備されたことで、日本軍の仏印における継続的軍備増強はもはや防衛目的ではないだろうことは、世界にとってこの数週間で明白となっています。日本軍の仏印での継続的な軍備増強は膨大な規模にまで達しており、またインドシナ半島の南東と南西の端から端まで占めているため、フィリピンや西インド諸島、マレーシア、タイの人々が、これら日本軍勢力が各々の国や周辺国への侵攻を虎視眈々と練っているのではないだろうかと憂慮するのもごく当然のことです。これらの国々にとっては国の存亡や平和維持がかかっているため、ごく正当な脅威であることは陛下も理解していることと思います。また、多くの米国人が、膨大な規模の兵士と軍備を配備した陸海空軍基地は、攻撃さえも可能な軍事力だと疑ってかかる理由も陛下は理解できることと思います。この現状が続行するのが許しがたいことは明白です。また、このことに憂慮を示したどの国も、固唾を呑んでいつまでも危険を見守っているわけには行きません。
ですが、もし、全ての日本軍兵士・軍人が仏印から撤退するのなら、米国が仏印を侵略する意思は一切ありません。また、東インド政府とマラヤ政府(マレーシア)、タイ政府からも同様の保証を取り付けることが可能だと考えています。さらには、同様の保証を中国政府から得られるよう中国政府に働きかけることもやぶさかではありません。日本軍の仏印からの撤退は南太平洋全体の平和維持にも繋がるでしょう。
陛下がこの非常事態を勘案し、私が提案するこの「暗雲を払拭する方法」を検討なさることを熱望していることを、この場を借りて力説いたします。超大国である両国の国民のためだけでなく、周辺諸国の平和のためにも、陛下と私は、これまで培ってきた両国の友好関係を復元し、これ以上の惨事や破壊を地球上から阻止する神聖な責務を負っております。

フランクリン・D・ルースベルト

翻訳 S・Fujimoto

参考資料

http://www2.big.or.jp/~yabuki/2006-10/k-warner.pdf
 日米戦争前後の朝河貫一とL.ウオーナー

https://www.waseda.jp/flas/rilas/assets/uploads/2018/10/403-421_Takashi-JINNO.pdf
朝河貫一とグレッチェン・ウォレン(Gretchen Warren)の文通

https://visitpearlharbor.org/president-roosevelts-letter-to-emperor-hirohito/

追加情報

朝河貫⼀の史料収集と人文科学の意義 Daniel Botsman イェール大学教授 
朝河貫一 博士 没後70年記念シンポジウム
「今、なぜ朝河貫一か」より一部抜粋
https://www.i-house.or.jp/pdf/symposium20181020/kouenroku_PDF.pdf

朝河貫⼀の史料収集と人文科学の意義
Daniel Botsman  イェール大学教授 

イェール大学教授にご登壇いただきます。先生はパプアニューギニア
で生まれ、オーストラリアのブリスベンでお育ちになりました。幼少の頃から日本語を学んでいた ということで、1500
年頃から現代までの日本の歴史、特に経済社会史がご専門で多くの著書があ ります。

ご存知の方も多いかと思いますが、朝河貫一はイェール大学 で研究に従事した数十年の間に、日本の歴史資料の素晴らしいコレクションを築き上げました。それらの史料を見るだけでも、 朝河がいかに真剣にアメリカでの東アジアの歴史や文化に対する理解を深めようとしていたかが窺われます。 イェールの日本関連資料のハイライトについては、ぜひ 本日皆さんにお配りした小さなバイリンガルのカタログ「Treasures from Japan」を参考になさってください。これは、 バイネキ稀覯本・手稿図書館で日本の史料が展示される機会に合わせて、2015 年に出版したものです。 本日は時間が限られているので、あまり詳しくご説明はできませんが、例えばこのカタログの表紙に使用されているのは「台文再還祝」と題される絵巻物です。これもほんの一部だけですが、 その長さは 17 メートルもあって、朝河が 1907
年にイェール大学の図書館のために購入した「京都古文書」という史料群の目玉です。
「京都古文書」の史料は、歴史家の間では広く知られている「町代改義一件」と呼ばれる事件に 関連するものです。これは簡単に申し上げると、1817 年(文化14 年)を皮切りに、京都の町組、 町人の組織・グループの代表者たちが、下級官吏である町代を相手に訴訟を起こしたというもの でした。争議は 1年以上にわたって続きましたが、結果的に京都町奉行は町組、町人側に有利な
判決を下しました。町代の職務権限は大きく縮小され、町の自治が促進される形で都市行政の改 革が進められたのです。
この絵巻をご覧いただくと、自分たちの言い分を支えるために町奉行に提出していた非常に貴 朝河貫一の生き様 講 演パネルディスカッション 29 朝河貫一の史料収集と人文科学の意義 重な書類を取り戻した町人の代表者たちが、うれしそうに市街を練り歩いている様子が見えます。
このような画像史料は、英語圏で日本史の魅力を多くの方々に伝えるためには、やはり非常に大事です。これだけを見ると、そんなに面白くないと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、よく見るとユーモアのあるシーンもありますし、都市の住民のいろいろな要素がここに描かれています。例えば、女性も子供も老人も出てくるし、ホームレスの方も描かれており、非常に貴重 だと思っています。
もちろんこういう画像史料のほかに文字史料もたくさん向こうにあります。この「京都古文書」コレクションの中にもたくさんあって、いまちょうど大学院のゼミでは、この争議の結果を詳細にまとめた「乍恐済証文之事」という史料を取り上げていす。これも非常に長い史料で、3 メートル以上あります。内容は全体を通して難易度が高く、もちろんご覧のように崩し字で書かれているので、向こうの大学院生にはなかなか荷が重い史料ですが、ゆっくり丁寧に読み、英語へと翻訳する過程で、前近代の日本社会に対する理解を劇的に深めるのです。こ のように、私たちも小さな形ではありますが、100年以上も前にこれらの史料をイェール大学に 持ち込んだ朝河先生の遺志を、現在に受け継いでいるのだということになるでしょう。
大学院のゼミだけではなく、学部生向けの授業でも朝河の生涯をよく取り上げることにしていますが、イェールの学部生でもやはり一番心を動かされるのは、朝河が最後の瞬間まで太平洋戦争を回避すべく、昭和天皇へ親書を送るようルーズベルト大統領に訴えた部分のようです。これは有名なエピソードなので、これ以上詳細を申し上げませんが、朝河と一緒に合衆国大統領を説得したのが、ハーバード大学の有名な美術史家であったラングドン・ウォーナーであったことは 確認しておくべきでしょう。
ウォーナーは、奈良や京都を米軍の空襲から守った人物として語られることが少なくありません。これについては明確な証拠がなく、現在では神話的なエピソードであると考えられていますが、ウォーナーが朝河と共に、日本の文化遺産について世界に知らしめようとしたことは間違いのな い事実です。しかし、そもそもこの 2 人はどのように出会ったのでしょうか。私の知る限り、2 人 の接点の最初の一つは、1923年にイェール大学出版局から刊行された、ウォーナーの『Japanese Sculpture of the Suiko Period』(推古期の日本の彫刻)に朝河が序文を寄せ たというものです。 昨年 4 月、学部の授業の準備をする中で、私はこの本を1 冊手元に置いておくのもよいだろう と思いました。そこで、とりあえず Amazon を検索すると、古本で在庫があったので、すぐに注文ボタンをクリックしました。今の世の中ではありきたりの行為です。ところが、驚くべきことが起こりました。数日後、手元に届いたその本の表紙をめくってみると、「ASAKAWA」の蔵書 印があったのです。さらにページをめくると、題名と著者の記載がある箇 所に、赤鉛筆で次のような書き込みがありました。「著者および出版社から恵投。1924 年 1月 24 日拝受。K. Asakawa。要するに、これは朝河本人の蔵書であり、亡くなられたあと、イギリスの古本屋に売られたようです。私はその 1 冊をオンラインショッピングの魔 術によってニューヘイブンに呼び戻したようです(笑)。
しかし、何よりも驚くべきは、最初の数ページの間に挟まれた紙片でした。いろいろなものが入っていましたが、例えば一つに、ニューヨーク・タイムズ紙の、この本 の書評が入っています。あと、一番凄かったのは、1923 年1 月の日付のある 3 通の手紙でした。 最初の 1 月 15 日付の手紙は、当時のペンシルベニア博物館の館長であったウォーナーから朝河に宛てられたものです。それは「推古時代の彫刻に関する拙著に序文を書いてくださる気はまだあ りますか。(中略)長いものでなくて構いません。3000語か、それ以下でもよいのです」と尋ね るものでした。この手紙の欄外には、実は朝河先生自身のメモがあります。「姉崎」と「300 より3000」と、最後に「時間」と書かれています。 このメモの書かれた理由は、朝河からのウォーナーへの返事である第 2 の手紙を読むとはっきり分かります。朝河は「あなたの著作への序文については、姉崎か誰かに頼んでいるものだとばかり思っていました。しかし、私にとお考えのご様子。光栄ではあるのですが、以前もお伝えしたように、あまり気が進まないのです。私は日本の建築や彫刻よりも、フランスの封建制につい てのほうがまだ詳しい気がします。それに、6月まで片付けなければならない仕事があり、どうし ても忙しいので、時期はよくありません。ところで、以前は 300 語というお話だったのが、今回 は3000 語となっているようですね」。 これを読むと、矢吹先生の先ほどのご報告の中にも紹介された、大著『The Documents of Iriki』(入来文書)を書き上げようとしていた 1920 年代の朝河が、なんとか研究に邪魔が入らないようにと守りを固めていたことが分かります。自分などよりも著名な姉崎正治のほうが適 任ではないか。最初は 300語でよいと言っていたのだから、3000 語も書く必要はないだろうと。
しかし、渋々ながらも朝河は、個人的な手紙という体裁でよければ序文を書いてもよいと提案 します。
これに対するウォーナーの返答は、迷いのないものでした。ウォーナーは 1 月 29 日付の手紙でこう返事をしています。「ぜひ個人的な手紙を書いてください。お望みならば、フランスの封建制 についてでも構いません。
(中略)
拙著を褒めなければならないと考えて気兼ねされる必要はあり 朝河貫一の生き様 講 演パネルディスカッション 31 朝河貫一の史料収集と人文科学の意義ません。駄作だと書いてくださってもよいですし、内容に触れなくても構いません。ただ、私たち外国人にも、あなたのような日本人にも、その時代とその産物について考えることは意味のあ ることだ、と書いていただきたいのです」。
ウォーナーの性格もこの文章にはよく出ていると思いますが、最終的にはもちろん朝河は序文 を書きました。それは確かに個人的な手紙という体裁で、ちょうど3000 語に届かない程度の長さ です。さすがにフランスの封建制は登場しません。
しかし、このことは現代の私たちにとってどのような意味を持つのでしょうか。
第一に、朝河とウォーナーの初期のやりとりにより、米国の日本研究の発展において、いかに朝河が重要な役割を果たしていたかが分かります。また、朝河が米国の同業者に対して寛大であったことや、大きな責任感を持っていたことも分かります。先端的な中世史の研究、比較封建論を懸命に進めていた朝河にしてみれば、聖徳太子の時代の美術や建築や彫刻に関する本について、た とえ 300語でも書く時間は惜しかったでしょう。しかし、日本の文化的達成を世界に広めようと するウォーナーの努力を認め、朝河は彼に協力します。
また、より一般的な見方をすれば、*朝河とウォーナーの交流は、人文科学の追究が時に予期せぬ結果を招くことを私たちに思い出させてくれるのです。*昨今では、人文科学はまたしてもおとしめられ、より実利的な領域に圧迫されているように思われます。これから、推古期の美術、あるいは九州南部の数百年前の古文書を研究したいと思い立った若者がいるとしたら、果たして十分な支援を受けられるかどうか、私には自信がありません。しかし、朝河とウォーナーを結び付けたのはまさにそのような研究であり、その交流がなければ、後年この 2 人が手を携えて、彼らの愛するものを破壊から守ろうと努力することもなかったのです。 なるほど、彼らの声に耳を傾けた権力者はわずかでした。私は想像してみます。*もし当時から彼らの意見を聞き入れ、1930 年代から 1940 年代にかけて、軍備増強のために注がれた情熱が、人類共通の歴史や文化の遺産を理解し合うことに注がれていたら、世界はどのようになっていた のだろうかと。
ご清聴ありがとうございました。

以上、

 朝河寛一は、昭和23年(1948年)8月11日早朝、避暑研究先のバーモント州ウェスト・ワーズボロの山荘で心臓麻痺のため74歳の生涯を終えた。その訃報はAP電・UPI電を通じて「現代日本がもった最も高名な世界的学者が逝去した。」とその死を悼み世界の隅々まで打電された。

「ゆるむ心をひき直し 吹き入る塵をはらひのけ」「つばさのかぎり翔り往なば」

まさに、名の寛一が表すように「吾が道、一を以て之を貫く」生涯、朝河寛一

 歴史を振り返りながら、記録を記憶に留めることが『生かされている私たち』に必要とされていると思います。

追記

朝河寛一の著作

『日本の禍機』

世界に孤立して国運を誤るなかれ──日露戦争後の祖国日本の動きを憂え、遠くアメリカからエール大学教授・朝河貫一が訴えかける。歴史学者としての明解な分析に立って、祖国への熱い思いが格調高く述べられ、読む者の心に迫る。彼の忠告も空しく、軍国主義への道をつき進んだ日本は、戦争、敗戦へと不幸な歴史を辿った。日米の迫間(はざま)で、日本への批判と進言を続けた朝河。彼の予見の確かさと祖国愛には、今もなお学ぶべきものが多い。

目次

  • ●前篇 日本に関する世情の変遷
  •  日本に対する世評の変化
  •  満州における日本に対する世の疑惑の由来
  •  反動説──感情的反対者──利害的反対者
  •  東洋における世界の要求
  •  一八九九年以前
  •  一八九九年以後
  •  日露戦争以後
  • ●後篇 日本国運の危機
  • ・第1章 戦後の日本国民多数の態度に危険の分子あることを論ず
  •   国権説は機に後れたり
  •   国勢は劇変して国民の態度はこれに副わず
  •   国民の危険なる態度、国運の危機
  • ・第2章 日本と米国との関係に危険の分子少なからざることを論ず
  •   米国人の日本に関する感情の変遷
  •   日本人の米国に関する思想の浅薄
  •   日、清、米の重大なる関係
  •   米国と新外交、清国の信頼
  •   米国人民の東洋に関する輿論
  •   米国為政者の東洋に関する思想 ローズヴェルト氏、タフト氏
  •   結論 日本国民の愛国心

 

 


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