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日本初の保育園は鎌倉市から!『佐竹音次郎』を知っていますか?

2016-03-13 03:37:02 | 教育 子育て

佐竹音次郎とは?

『保育の父・佐竹音次郎に学ぶ会』のホームページ↓よりhttp://otojiro.link/shoukai.html

佐竹音次郎は明治・大正・昭和の激動の時代を児童福祉に身を投じた人物です。
 
四万十市竹島出身で若くして上京し神奈川県の鎌倉にて児童養護施設を運営しました。もともと保育という言葉が初めて日本で使われたのは1896(明治29)年のことです。

 当時、孤児院と呼ばれていた施設を佐竹音次郎がそう名付けたのです。これが佐竹音次郎が『保育の父』と呼ばれるゆえんです。

 音次郎が運営した保育院と現在の保育所は違い、現在では児童養護施設に相当する施設が日本ではじめの保育園ということになります。
 その後、台湾、韓国、中国でも事業を展開し、音次郎が存命中5,571人の子どもを育てました。 音次郎は預かった子どもを自他の区別なく育てる聖愛主義に徹し現在の保育の礎を築きました。

~音次郎略歴~

1864(元治1)年~
旧下田村竹島に出生
地元の小学校教員を経て上京し、医学を志す。

1894(M27)年~
神奈川県腰越で開業。鍋島出身の妻を迎え入れ、腰越医院に小児保育院を併設する。

1905(M38)年~
わが子らの死をきっかけに医業を廃して鎌倉小児保育園を設立して、児童養護に専念する。

1913(T 2)年~
中国に旅順支部を開設したのち、朝鮮、台湾にも事業を展開する。

1920(T 9)年~
私財全部を提供して施設を財団法人化する

1940(S15)年~
鎌倉の地にて永眠

1966(S41)年~
音次郎の後継者が現在下田にある若草園を鎌倉保育園中村支部とし、約 30年その運営を支えた。

2015(H27)年
生誕151年の日に郷土にて「保育の父・佐竹音次郎に学ぶ会」が設立。


佐竹音次郎は日本ではじめて「保育」という言葉を使った(つくった)人だ。明治29年(1896)、神奈川県鎌倉に「小児保育院」を開設し、その後「鎌倉保育園」となる。日本で最初の保育園だ。

この保育園は、いまの保育園とは違う。当時の孤児院のことだ。音次郎は、孤児院という言葉を嫌い、身よりのない子どもたちを、「保(やす)らかに育てる」という意味で「保育院」とつけた。以後、児童福祉一筋に生涯をささげたことから、『保育の父』と呼ばれている。

児童福祉の先駆的役割
佐竹音次郎

 音次郎は幕末の元治元年(1864)、竹島生まれ。幼くして里子(養子)に出された。しかし、養父母が離別したため、実家に帰された。その後、刻苦勉励して東京に出で医者になり、鎌倉で開業。キリスト教にも帰依。幼いころ自ら寂しく悲しい体験をしていることから、身寄りのない子を引き取るようになった。
その後、医者を捨て、保育事業に専念するようになる。私財のすべてを投じ、自他の子ども分け隔てなく育てる『聖愛一路』の精神を貫いた。

音次郎は昭和15年(1940)、77歳で没するが、その後も子どもたちによって、現在の社会福祉法人聖音会(「音」は音次郎から)に事業が引き継がれている。
鎌倉には音次郎夫妻の銅像が建っている。
http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-77.htmlより

佐竹音次郎に関する著作

新版・聖愛一路
監修:高田 彰.
発行:文芸社 2003年3月 1,260円. 1940年に発行された「聖愛一路」の改訂版。

内容説明

(社)聖音会(旧鎌倉保育園)の創設者・佐竹音次郎の評伝。明治から昭和へという近代化に向け、この激動の時代のなか、宗教的理想を追求してそれを実践した佐竹音次郎の魂の彷徨が濃密に描かれている。小学校教員時代、幼児教育の重要性に目覚め、その後、医師となり、在職中にキリスト教との運命的な出合いがあって、「身を殺して仁となす」精神を感得、一生を信仰共同体としての保育園事業に捧げる。引き取った孤児、遺児たちと、我が子との間に隔てのない一視同仁の育て方をする「聖愛主義」の理想を追求する佐竹音次郎の姿勢は、福祉の心そのままで、頂門の一針として人々の胸をうつ。

目次

第1部 聖愛一路(街の人気者;鎌倉保育園;障害者の人々;佐竹音次郎翁 ほか)
第2部 音次郎の社会福祉の特色と精神(音次郎のなした事業で日本で先駆的に手がけた事跡;大家族主義;音次郎の経営感覚;音次郎と社会主義運動 ほか)

著者紹介

高田彰[タカタアキラ]
昭和23(1948)年~昭和46(1971)年鎌倉教会牧師。以後、日本キリスト教団神奈川教区巡回牧師として働く。現在は引退。宮本純子宣教師(ブラジル、パラナ州マリンガ市名誉市民、文化功労賞受賞。昨年勲五等瑞宝章を授けられる)後援会世話役代表。昭和25年に宮本氏よりブラジル行きの相談を受け、昭和28年にブラジル行きに賛成。鎌倉教会辞任後、健康回復ののち昭和52(1977)年初めて現地問安、翌々年より妻深雪同行で、平成11年(1999)に八回目の問安をした。

話が多少変わりますが、佐竹音次郎には熊という、献身的に夫の事業、医院を手伝う妻がいた。熊の実家である沖本家は、土佐の士族であり、音二郎とは同郷のよしみであった。
 そして、熊の実姉が、女医の沖本幸子であり、鎌倉初の女性医師である沖本幸子(おきもと さちこ)
1873-1923、その人なのである。

医療や保育や福祉・介護の精神が広がる大変興味深い関係であり、以下のホームページに詳しく書かれていますので是非ご一読下さい。

鎌倉初の女性医師
沖本幸子(おきもと さちこ)
1873-1923
http://www.ac.auone-net.jp/~bosigai/Okimoto_Sachiko.html

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