種まく人から人々へと・ 命の器(いのちのうつわ)

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種まく人から人々へ、秋田から鎌倉へと蒔かれた種、再考

2018-03-31 19:22:36 | 地域情報
鎌倉市では、鎌倉八幡宮の銀杏が大変に有名ですが、鎌倉市市役所前に移植されたイチョウの樹にも歴史があります。鎌倉市は「平和都市宣言」を(制定昭和33年(1958年)8月10日)している。今年で、60周年の節目になる。

戦後、鎌倉市の平和運動は、まず市民主導で進められました。昭和24年に*小牧近江(こまきおうみ)らが中心となり「鎌倉をよくする会」が発足、「鎌倉平和大会」が行なわれ、鎌倉駅前に一本の銀杏の木が植えられました。この木は、フランス大革命の「自由の木」にちなみ、二度と戦争を繰り返さないという決意をこめて、「平和の木」と命名されました。そして、昭和27年には、「第1回海の平和祭」が開催され、昭和33年の「第7回海の平和祭」において、鎌倉市は「平和都市」を宣言しました。
なお、この木は、昭和46年に市庁舎敷地内に移され、現在に至っています。



*小牧近江
こまきおうみ
(1894―1978)

社会科学者、翻訳家。秋田市土崎港(つちざきみなと)生まれ。本名近江谷(おうみやこまき)。東京の暁星中学中退後、代議士の父に伴われて渡仏。1918年(大正7)パリ大学法学部卒業。その間、思想のインターナショナルを叫んだクラルテ運動に参加。日本大使館勤務後帰国し、21年金子洋文(ようぶん)らと土崎版『種蒔(ま)く人』創刊、第三インターナショナルを初めて紹介する。東京で『種蒔く人』再刊後、『文芸戦線』などで無産階級文化運動を推進。第二次世界大戦中はフランス領インドシナにあって民族解放運動にも関係。戦後、中央労働学院長、法政大学教授を務めた。バルビュスの『クラルテ』などの翻訳紹介のほか、『ある現代史』(1965)、『種蒔くひとびと』(1978)などの回想記がある。[山田俊治]
『『種蒔くひとびと』(1978・かまくら春秋社)』

反戦小説としての『肉体の悪魔』
2012-01-05 23:25
https://monsieurk.exblog.jp/15225483/ より
...戦時下をパリで過した小牧近江は、1919年1月からパリ講和会議が開かれると、在仏日本大使館の現地雇員として代表団に参加し、松岡洋右が率いる新聞係の一員として活躍した。講和会議は1919年6月30日をもって終わり、小牧は10月のある金曜日に、旧友のスヴェリーヌの尽力で、新聞「ポピュレール」社の3階にあった「クラルテ」社を訪れて、作家アンリ・バルビュスに面会した。
 戦後、反戦主義にもとづく文化運動「クラルテ」を主導していたバルビュスは、平和思想の国際化の必要を力説し、労働者には労働者の、農民には農民の、兵士には兵士の任務があるように、思想の鉾もまた世界的に結束されねばならないと説いたという。
 この年の暮れに10年ぶりで帰国した小牧は、バルビュスから託された反戦運動を日本でも広めるために、旧友たちと語らって故郷の土崎で雑誌を創刊した。これがプロレタリア運動の魁となった雑誌「種蒔く人」である(これに関しては天雲成津子「雑誌『種蒔く人』にみる情報・思想の拡がり」「情報化社会研究」第8巻、2008年11月を参照のこと)。
 小牧が『肉体の悪魔』の翻訳を思い立ったのは、「クラルテ」運動の機関誌に文芸評論を書いていたマルセル・フーリエの勧めによるものだった。小牧は一読して全篇にみなぎる反戦色に感銘を受け、友人の土井逸雄を誘ってこれを翻訳した。
 問題は筆名だった。「種蒔く人」の出版以来、小牧の身辺には監視の目が光っていた。本名で出版することは危険であった。彼ら二人は小牧が住む鎌倉稲村ヶ崎の海岸を歩きながら相談しているうちに、目の前に荒波が立ち騒ぐ光景から「波達雄」というペンネームにすることを考えついた。
 こうして翻訳は理解のあるアルス社から出版されたが、案の定、荒波が立ってたちまち発禁処分となった。この本が稀覯本となっているのはそのためである。このときの翻訳に手を入れた再版が三笠書房から出版されたのは第二次大戦後の昭和27年(1952)である。それより前の1947年には、クロード・オータン=ララ監督、ミシュリーヌ・プレール、ジェラール・フィリップ主演の映画が製作され、日本でも上映されて多くの観客を集めた。



 ・・・「平和の木」は今後も、鎌倉市民の平和への取り組みを励まし続けることでしょう。との由来が書かれた表示があり。また、平山郁夫画伯の書による「平和都市宣言」のプレートも市役所前にあります。ぜひ機会がありましたら、「星の指令??」で銀杏の葉が落ちる前に、歴史的な興味関心の所在(ありか)を確かめるために現地(鎌倉市市役所)を訪れますと、さらにいっそう感慨深くなると思います。

https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/danjo/heiwa-w.htmlより


http://i.4travel.jp/travelogue/show/10633249より

鎌倉市の「平和の木」と「平和都市宣言」

「武家の古都・鎌倉」を標榜する鎌倉市には「平和の木」があり、鎌倉市は「平和都市宣言」(制定昭和33年(1958年)8月10日)している。

昭和24年(1949年)5月3日の憲法記念日に全国にさき本庁舎敷地内にある「平和の木(銀杏の木)」

平和の木プレート

鎌倉市戦後50周年記念事業実行委員会と鎌倉市が設置した「平和の木プレート」よりがけて開らかれた鎌倉平和集会を記念し、小牧近江らの提案で鎌倉駅前に1本の銀杏の木が植えられ、フランス大革命の「自由の木」にちなみ、二度と戦争を繰り返さないという決意をこめて、「平和の木」と命名された。

この木は、一時駅前整備のため旧市役所庁舎前に移植され、さらに、昭和46年(1971年)に現在のこの場所に移された。そして、昭和27年(1952年)には、「第1回海の平和祭」が開催され、昭和33年(1958年)の「第7回海の平和祭」において、鎌倉市は「平和都市」を宣言した。銀杏の木は鎌倉においては特別の木のようで、寺社の境内や寺社跡でもないと植えられることはないようだ。例外的には鎌倉駅前の銀杏並木や今泉台や常盤住友住宅の団地の銀杏並木と寺分のJR跡地ぐらいにしか見られない。それだから「平和の木」に選ばれたのだろう。

鎌倉は太平洋戦争末期にも空襲を受けなかった都市であるが、文化人が多く住んでいたために早い時期での「平和都市宣言」になったのであろう。

昭和24年(1949年)5月3日の憲法記念日に全国にさきがけて開らかれた鎌倉平和集会を記念し、小牧近江らの提案で鎌倉駅前に1本の銀杏の木が植えられ、フランス大革命の「自由の木」にちなみ、二度と戦争を繰り返さないという決意をこめて、「平和の木」と命名された。この木は、一時駅前整備のため旧市役所庁舎前に移植され、さらに、昭和46年(1971年)に現在のこの場所に移された。

 そして、昭和27年(1952年)には、「第1回海の平和祭」が開催され、昭和33年(1958年)の「第7回海の平和祭」において、鎌倉市は「平和都市」を宣言した。
 銀杏の木は鎌倉においては特別の木のようで、寺社の境内や寺社跡でもないと植えられることはないようだ。例外的には鎌倉駅前の銀杏並木や今泉台や常盤住友住宅の団地の銀杏並木と寺分のJR跡地ぐらいにしか見られない。それだから「平和の木」に選ばれたのだろう。
 鎌倉は太平洋戦争末期にも空襲を受けなかった都市であるが、文化人が多く住んでいたために早い時期での「平和都市宣言」になったのであろう。

「平和の木(銀杏の木)は市役所庁舎敷地にある。

鎌倉市戦後50周年記念事業実行委員会と鎌倉市が設置した
「平和の木プレート」。

「平和の木
昭和24年(1949)5月3日の憲法記念日に全国にさきがけて開らかれた鎌倉平和集会を記念し、小牧近江らの提案で鎌倉駅前に1本の銀杏の木が植えられました。フランス大革命の「自由の木」にちなみ、二度と戦争を繰り返さないという決意をこめて、「平和の木」と命名されました。この木は、一時駅前整備のため旧市役所庁舎前に移植されましたが、昭和46年(1971)、現市役所庁舎のこの場所に移され、現在に至っています。

 「平和の木」は今後も、鎌倉市民の平和への取り組みを励まし続けることでしょう。

 戦後50年をむかえ、平和な世界が永久に続くことを願い、この木の由来を記します。

平成7年(1995)8月10日

鎌倉市戦後50周年記念事業実行委員会/鎌倉市

「平和都市宣言

われわれは、 日本国憲法を貫く平和精神に基いて
核兵器の禁止と世界恒久平和の確立のために
全世界の人々と相協力してその実現を期する
多くの歴史的遺跡と文化的遺産を持つ鎌倉市は
ここに永久に平和都市であることを宣言する。

  昭和三十三年八月十日 鎌倉市

             平山郁夫 書」

追記
*大内兵衛氏が揮毫した平和都市宣言の木製の碑は、鎌倉中央図書館の地下倉庫に眠っている、是非、今年2018年は平和都市宣言の60周年の節目であり、さらに大内兵衛氏生誕130周年の節目でもある。
再度、大内兵衛氏揮毫の平和都市宣言の木製の碑も、日の目を見させていただきたい。それが歴史や文化伝統を重んじることでもあろう!

大内兵衛
おおうちひょうえ
(1888―1980)

経済学者。明治21年8月29日兵庫県淡路島に生まれる。1913年(大正2)東京帝国大学法科大学経済学科卒業。大蔵省を経て19年東京帝国大学経済学部助教授となり財政学を担当。20年1月森戸事件に連座して退職。21年ドイツに私費留学、留学中の22年特赦により東大復職、23年帰国とともに教授として財政学第二講座を担当。この講義テキストとして30年(昭和5)に出版した『財政学大綱』は、当時学界の主流であった社会政策学派に対し、科学的社会主義の立場からの財政学を初めて体系化したものである。38年人民戦線事件の「教授グループ」の一員として検挙され、東大休職、45年(昭和20)敗戦により東大復帰、49年定年退官。この間、多数の著述を出版、また門下に幾多の学者を輩出した。退官後は法政大学総長、社会保障制度審議会会長などの要職を歴任、また晩年は、マルクス主義の立場にたつ論文の発表を通じ、社会主義運動への影響力も大きかった。昭和55年5月1日没。主要著書には『財政学大綱』のほか、『日本財政論 公債篇(へん)』(1932)、『明治財政経済史文献解題』(1933)、『日本インフレーションの研究』(共著・1946)などがあり、A・スミスの『諸国民の富』、エンゲルスの『空想より科学へ』などの翻訳もある。[御園生等]
『『大内兵衛著作集』全12巻(1974~75・岩波書店)』