東成まちあるき

東成を歩いて観察!
東成の魅力を発掘します!!

東成と菅笠

2009-06-16 23:13:31 | 東成のビュースポット

「大阪はなれてはや玉造、傘を買うなら深江が名所」

と伊勢音頭に歌われたように、深江は菅笠(すげがさ)の産地として有名でした。
古代垂仁天皇のころ、笠を縫うことを職業とした笠縫氏の一族が、大和の笠縫邑から良質の菅の生い茂った深江の地に集団で移住して、代々菅笠を作ったことから笠縫島の地名が生まれました。
江戸時代中頃からは、伊勢参りが盛んとなり、一般道中用の菅笠が世に知られるようになりました。旅人は、玉造を出てすぐ到着するこの地で菅笠を入手し、長旅に備えたことでしょう。
古くは全戸が笠造りに従事し、明治の初めには外国にも輸出され、また歴代天皇の御即位式や、伊勢神宮の年式遷宮(20年に一度)に用いられる儀式用の大きな菅笠は、代々この地から調達されていました。江戸時代の末期からは菅の釜敷きや、瓶敷き、皿敷き(今のコースターのようなもの)などの菅細工も作られ、皿敷きは明治や大正の頃には、イギリスやアメリカにも輸出されました。

現在、深江稲荷神社内が「笠縫邑跡」として大阪府史跡にしていされています。また大阪市の顕彰碑「深江菅笠ゆかりの地」が建てられています。

現在も地元の深江菅田保存会が平成11年に大阪市指定文化財の指定を受け、菅細工の技術を継承を行っています。



矢田地蔵尊

2009-06-11 17:14:50 | 東成のビュースポット

JR玉造駅の東側、二軒茶屋・石橋跡の石碑から暗越奈良街道を少し歩くと右手に玉造駅東商店街(旧名:中道新建屋)があります。

この商店街にを歩くと矢田地蔵尊の地蔵堂があり、その地蔵尊の浮彫の下部及び向かって右側面に道標があります。
(東面して)「矢田地蔵尊 此より東」、(向かって右側面)「従是 二リ松原 一リ余くらがり峠 一里余小瀬 一リ矢田山」と書いてあります。
地元では、この道標を古くから矢田地蔵尊と呼び祀っているそうです。

地蔵盆には、大和の矢田寺からもお参りに来る人がいるそうです。
矢田寺への道標は、暗峠にもありますが、この街道がお伊勢参りの途次、矢田寺参りをする人たちにも利用されたことを物語っています。

場所:大阪市東成区東小橋1-1-2


東成警察署中道本通警ら連絡所<中本本通レトロ警ら連絡所>

2009-06-10 00:06:01 | 東成のビュースポット

中道本通警ら連絡所は、JR玉造駅の東側にあり、当時の面影をそのまま残している警ら連絡所です。
昭和12年に建てられ、府内の連絡所の中で5番目に古いものです。
戦争により周囲の家屋の大半が空襲で焼損する中で唯一、焼け残りました。

地元住民に愛され、歴史ある連絡所を大切にしようと、外壁を塗り替え、定期的に掃除をして植木を飾るなどの活動を展開中です。
最近では、木製の引き戸や窓枠などレトロな雰囲気が評判となり、記念撮影する人も増えています。また、暗越奈良街道のハイカーの集合場所として記念スポットになっています。

これからも地域を明るく照らす存在であってほしいですね!


木製看板は東成署署員の手作りです。

場所:大阪市東成区東小橋1丁目


シルクロードの終わるところ 堺屋太一

2009-06-05 07:39:06 | 東成のビュースポット

シルクロードの終わるところ

暗越奈良街道は、大阪と奈良を結ぶ最も近い道だ。それだけに、古来、様々な人と物とがここを通った。古くは天平時代、大仏開眼に招かれたインド僧が(736年)、次いで中国の鑑真和上が(753年)ここを通って奈良の都に入った。正倉院に残る宝物の中にも、この道を運ばれたものが多かったことだろう。

この道は、シルクロードの東の端なのだ。

戦国時代には、大和郡山城主となった豊臣秀吉が何度も往来したことだろう。百年余を経た元禄7年(1694年)、松尾芭蕉がここを大阪へと歩いていた。そしてそれから10年後(1704年)、大和川の付け替えで、沿道の景観は一変した。多くの川や沼が消え、豊かな綿畑に代わったのだ。翌年(1705年)伊勢参りが爆発的に流行した折りには、1日7万人がこの道を伊勢に向かっていた。

この道は、伊勢街道のはじまりでもあった。 

堺屋太一


大阪商工会議所東成・生野支部前にある暗越奈良街道の案内板

大阪商工会議所東成・生野支部公式HP

場所:大阪市東成区大今里3-14-27


ふれ愛パンジー(ひがしなり市民協働ステーション) 

2009-06-01 19:39:38 | 東成のビュースポット

東成区役所1階にふれ愛パンジー(ひがしなり市民協働ステーション)があります。

このセンターは、平成19年10月の市税事務所設置による庁舎の一部リニューアルに伴い生まれる1階南東側のスペースを「区民のためのスペース」という考えを基本に、区民と行政の参画協働の場としてつくられたものです。

このふれ愛パンジーは、ひがしなりだよりの募集に応募した区民の「参画協働センターをいっしょにつくろう会」のメンバーと地元企業の「参画協働センターものづくりパートナー」と区役所が一緒に考え、議論し、つくっていきました。

協働とは、「市民や行政が相互にお互いの不足を補い合い、ともに協力して課題解決に向けた取り組みをする」というような概念です。
まちづくりはいつでもひとりでも参加できることが基本で、「この指とまれ」方式で誰でも参加できる、ここに来れば情報がある、また区民の憩いの場所として、たくさんの人たちに利用されるようになると素敵です!

現在、ふれ愛パンジーの活性化のために活動するふれ愛パンジー運営委員会、ふれ愛パンジーを拠点にボランティアでまちづくりを行うフレンズ、音楽を通して東成区を盛り上げるミュージックフレンズのメンバーを募集しています。


東成区役所
ふれ愛パンジーの利用案内・イベント情報・これまでの「つくろう会」の経緯など


ふれ愛パンジー運営委員会ブログ「パンジーレター」
つくろう会から発展し、ふれ愛パンジーの活性化のために活動している区民スタッフの情報発信ブログです。

 
ふれ愛パンジー(ひがしなり市民協働ステーション)
 着ぐるみはマスコットの「ふれんじー」ちゃん


参画協働センターものづくりパートナーの協力による憩いの場
「森」をイメージして作られました。


現在、強力スタッフを募集中
個人でも団体でも参加OK!

場所:大阪市東成区大今里2-8 [東成区役所1階]

 


大阪セルロイド会館

2009-05-28 05:36:53 | 東成のビュースポット

東成区役所の裏手に、昭和初期のレトロな雰囲気の一風変わった建物があります。
大阪セルロイド会館です。
大阪セルロイド会館は昭和6年に建築され、昭和12年に増築されました。列柱構成と町家風という対照的な意匠を持つビルで、平成13年に文化庁により登録有形文化財(建造物)に指定されました。

セルロイドとは、歴史上最も古くに開発された合成樹脂のことで、ピンポン玉やギターのピック等に使われます。アニメーションの画材に用いられる透明シートの素材は、1950年代までセルロイドが使用されていたため、「セル画」と呼ばれました。

大阪市、特に東成区今里には工場が多数あり、セルロイド産業が盛んでした。
十河与三郎が大阪セルロイド、中谷岩次郎が中谷セルロイドを設立した場所として知られています。
現在、この建物の中には眼鏡、スキー、プラスチック資材といったセルロイドと関係のある組合、連盟の事務所が入居しています。1階の事務所に声をかければ、小数ですがセルロイド製品を見せてもらえます。


大阪セルロイド会館正面


セルロイド会館の裏手
窓も柱も風変わり


セルロイド会館正面側の内部
窓も階段も手すりも踊り場も直線的


セルロイド会館裏手側の内部
窓も会談も手すりも踊り場も曲線的。正面側と様式が全く違うのが面白い!


場所:大阪市東成区大今里西2-5-12


比売許曽神社(ひめこそじんじゃ)

2009-05-25 07:28:49 | 東成のビュースポット

大小橋命胞衣塚の横道を北に少し歩くと、比売許曽神社(ひめこそじんじゃ)が見えてきます。

比売許曽神社は、延長5年にまとめられた延喜式神名帳に記載された神社(延喜式内社)であり、古来より霊験が著しいとされる名神を祀る神社(名神大社)とされています。旧社地は、小橋の産湯の地にありましたが、大正年間の石山合戦で兵火にあい現在地の牛頭天王宮に合祀されました。

下照比売命(したたるひめ)を主祭神とし、速素盞嗚命・味耜高彦根命・大小橋命・大鷦鷯命・橘豊日命を配祀しています。比売(ひめ)とは、女の神様を指します。

『古事記』には、新羅から夫の天日矛(あめのひぼこ)のDVに耐えかねて、逃げ帰った阿加流比売(=赤留・阿加留) (あかるひめ)が身をひそめた神社と記されています。下照と阿加流が同一人物ではという説もありますが、宮司さんにもわからないそうです。なんか調べたら面白そうな話です。

社殿と社務所が渡り廊下で繋がっているのはかなり珍しい建物です。本来、社殿へは正面から入るのものではなく、横から入るべきだそうです。
また、お参りも社殿の正中に立つのは避けるべきで、そのため参道も正中から15度ずらすなど、細やかな配慮がされています。

 


神社の由来等を説明して下さった宮司さん


本殿よりも歴史のあると言われる渡り廊下

場所:大阪市東成区東小橋3-8


大小橋命胞衣塚(おおおばせのみことえなづか)

2009-05-24 17:09:12 | 東成のビュースポット

千日前通りと市道上新城生野線(通称・疎開道路)の玉津3丁目交差点には、北西の角に大小橋命胞衣塚(おおおばせのみことえなづか)があります。ここには、式内社・比売許曽神社とゆかりの深い大小橋命の胞衣が納められた場所と伝えられています。

小橋命は、藤原氏や中臣氏らの祖とされる人物で、この地に住み人々の尊敬を集めたと言われています。胞衣とは、胎児を包んでいた膜や胎盤などのことをさし、胞衣壺(えなつぼ)に入れて埋納する習慣があったそうです。
後世この塚に植えられた柳が子どもの夜泣き封じに効能があると伝承されてから、「えな塚」が「よな塚」と呼ばれ広く知れわたりました。

場所:大阪市東成区東小橋3-9


八阪神社(やさかじんじゃ)

2009-05-22 20:38:46 | 東成のビュースポット

八阪神社(やさかじんじゃ)は、素盞鳴尊(すさのおのみこと)と菊理姫命(きくりひめのみこと)の二柱をお祀りする旧中道村の氏神で、延喜9年(909)に藤原道長がこの地に別荘を設け、牛頭天皇・白山権現を祀ったのが始まりとされています。仁安元年(1166)里人が社殿を再興し、天正12年(1584)現在地に移転されたと伝えられています。もと牛頭天王白山権現(ごずてんのうはくさんごんげん)と称していましたが、明治5年(1872)八阪神社と改称しました。お伊勢参りのおりには、旅の無事を祈り詣でたとされています。

素盞鳴尊を祭神とする祇園信仰の神社は、日本各地に多数あります。八坂神社と書くのが多数派です。京都市東山区祇園町にある八坂神社が総本山になります。


 

場所:大阪市東成区中本4-8


玉津橋(たまつばし)

2009-05-20 06:14:09 | 東成のビュースポット

玉津橋(たまつばし)は、暗越奈良街道と平野川とが交差する位置にあり、交通の要所として賑わっていました。摂津史(享保20年)に橋の名前がでていることから、江戸時代初期には既に架けられていたと考えられています。「津」という字は、港を意味しますが、船着き場もあり、玉造の港ということから玉津橋の名称が生まれたのではないかと言われています。江戸時代は、柏原船、猫間船の水運が盛んで、平野川、猫間川と共に大坂の繁栄を支えていました。

明治時代は玉津橋から瓢箪山まで馬車が通い、発着所がありました。大正時代の橋は、橋板に丸太を並べその上に粘土を置いた土橋で両側は鉄の欄干でした。

現在の玉津橋は、橋長16m、幅員13.4m、昭和61年に建て替えられ、桁高を抑えるために鋼床版桁が採用されています。社団法人土木学会の「浪速の名橋50」にも選ばれています。「歴史の橋」として、江戸時代の絵地図「増修改正摂州大坂地図」をエッチングしたパネル6枚が欄干に取り付けられ、橋が古くから存続してきたことを顕彰しています。また、現在でも生駒山中の暗峠に石畳が残ることから、橋の歩道部には石畳風の敷石が並べられ、街道の雰囲気を伝えています。


二軒茶屋(にけんぢゃや)・石橋跡

2009-05-18 06:16:41 | 東成のビュースポット

JR玉造駅の東側に二軒茶屋(にけんぢゃや)・石橋跡の石碑があります。

この付近は、旧奈良街への大阪側からの入り口にあたります。暗越奈良街道は、江戸時代から人の往来が盛んとなり、この街道の起点であった玉造に「鶴屋(つるや)」「桝屋(ますや)」という二軒の茶屋が建てられ、旅人等の休息の場として繁昌したと伝えられています。当時の玉造は、旧市街のはずれで、旅人はここで旅装を整え、家族・友人の見送りを受けました。1日10里、約40kmを歩き、1里ごとに休憩したようです。
茶屋が二軒あったところから二軒茶屋といわれ世に広く知れわたりました。落語『代書』で、巴焼き屋(回転焼屋)を開いた場所がこのあたりです。


この二軒のそばを流れていた猫間川(ねこまがわ)に宝永8年(1711)に幕府の命によって橋が架けられたのが石橋です。正式には黒門橋といいますが、この付近にあった大阪城の玉造門が黒い門であったところから黒門橋と名づけられ、この橋が大阪では当時珍しく石で造られたものだったので通称石橋と呼ばれています。黒門橋は、大正13年に撤去され、猫間川も埋立てられて、今ではその面影を見ることはできません。 

場所:大阪市東成区東小橋1-1


暗越奈良街道(くらがりごえならかいどう)

2009-05-16 08:48:38 | 東成のビュースポット

暗越奈良街道(くらがりごえならかいどう)は、大阪から東大阪、暗峠(くらがりとうげ)を越えて生駒、奈良に至る旧街道で、数ある奈良街道の一つです。暗峠のある生駒山地は、断層山脈で傾斜が急なのが特徴です。生駒山を越える際に、杉の木が茂って昼でも暗い「くらがり峠」を越えることからこの名前がついたそうです。

奈良時代、都であった平城京と各地を結ぶ街道が整備されましたが、当時、平城京と大阪をつなぐ道が「奈良街道」と呼ばれました。その一つが暗越奈良街道です。
奈良時代に大阪と平城京を最短距離で結ぶ道として設定されました。玉造から、東成区の大今里、深江、東大阪を経て、生駒山の暗峠を越えて奈良に至る道です。


江戸中期以降は、伊勢参りの旅人で賑わいました。伊勢参りは、当時の一大レジャーであり、街道筋はだれもが歩いてみたいと憧れました。東海道のような関所もなく、一日に7・8万人もの人が通る賑やかな街道でした。


江戸期に幕府が高麗橋を大阪の玄関口として整備し、のちに里程元標が置かれたため、大阪の街道の起点は、高麗橋だと考えられるようになりました。しかし、それ以前は、市街地の東端である玉造が伊勢参りに代表される旅の実質的な出発点でした。


現在では、国道308号、大阪府道、奈良県702号大阪平岡奈良線がほぼこの街道筋にあたり、建設省により「日本の道百選」に選定されています。 

(参考)
ウォーキングマップ(大阪府)

大阪検定公式参考書「大阪の教科書」