平田匠(HIRATA TAKUMI)―TAKUMI DUO;Pianist(ピアノ弾き)―
年の瀬に、
ひさびさに語る、あるいは、
ひさびさに呟く。
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|その1|
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今年は、かつて…って、もうほんとうに昔のことだけどレッスンをしていただいた松浦豊明氏がお亡くなりになった。その演奏中の身体のうごき、用いようは、いまでも鮮明に思いかえすことができる。
その意味で、どうにもすっかり軟体動物化してる私の演奏表象であるが、これは物心つく前からそうだったようで、当時の映像や写真が黙ってその証拠をいつでも突きつけてくる。そして、そんな演奏での身体の用い方は、松浦氏のそれと、単純にいうならば対極に位置するものなのかもしれない。
ご存知の方も少なくないと思うが、松浦氏はもともとほれぼれする体躯の持ち主。その体躯を椅子深くにすっぽりとおさめ、悠然と(背筋はピンとのばし)、淡々と(しかしその面は、深い悲しみやすこぶるつきの悦びが溢れだし)、歯切れのよい鍵盤さばきからか高音に移るにつれさらに艶をたたえる「こえ」のような音律で「うたい」、私もこんな演奏家になれるもんならなぁとため息をつきつつ、その演奏を凝視していたことを憶えている。
なんかの機会に、僕は松浦氏の前で、用意万端。悠然と淡々と歯切れよく・・・
松浦氏は、言われましたよ。
「匠くん、だめだよ。キミの弾き方を裏切っちゃあ」
松井満;山口県下関市立下関商業出身。下商(左胸にSのマークがきらめくユニホームに、オールドファンはさまざまな想いを抱かれるんじゃないでしょうか)時代は、下級生時代は4番。そして、2年秋から3年の引退前までの最後のチームでは、
3番・センター・松井満・背番号8
私が、松井さんをはじめてみたのは中学3年生のとき。僕自身が野球仲間と進学を考えていた学校が秋の県大会を快進撃、「いやぁ、これやったら、ひょっとして甲子園、わしらいけるかもしれんぞ」とうかれついでに、敵校(笑)視察をかねて下関市営球場にいった、とさ。
3番・センター・松井満・背番号8
高校2年生の彼が打ったショートライナー、ショートがちょっとジャンプしたもののボールには惜しくも触れず、これが アパッチ野球、もしくは現役バリバリの中西太の打撃なら、そのショートをこえた打球がそのままグーーーーンと伸びて、そのままバックスクリーン左近くへ、いや場外に消え去りもするのだろう。松井さんは、残念ながら、違っていた。しかし、違ったといっても、僕のリアリティなんぞでは松井さんのそのときの打球を捕捉することはできなかった。松井さんのバットから放たれたボールは地上からほぼ一定の高さで、そのまんま左中間のイチバン深いフェンスにダイレクトにぶちあったのである。
なぜ、松井さんは県内最強チームを牽引していながら、甲子園にいかなかったのだろう。いや、いけなかったのではなく、ぼくにはあえて「いかなかった」ようにしか思えなかった。そう、松井さんは甲子園出場をあと一歩のところで逃したのである。松井さんが甲子園を断念した夏、高校1年生の僕は、とうぜんながら松井さんのバットスイングを真似し始めていた。在籍していた野球部での練習中、フリーバッテイングはもちろん、シートバッティングでも、5本打つと3本はフェンスをこえるようになった・・・が、それはどれも力なくふわふわとナサケナイ放物線もどきを描くだけだった。
明治大学に進学するとばかり思っていた松井さんが、1974年秋、阪急ブレーブスにドラフトにかかった。高卒外野手で「2位」に、世間は驚愕した。が、ごく一部の地元の野球小僧は「1位」ぢゃないのが不思議でならなかった。けっして、世間をしらなかったのではない、相対化できていなかった?…ふざけるな。福本・加藤・ウイリアムス・蓑田と、スポーツジャーナルは「ビッグネーム」を並べ、そこに割って入ることの難しさと期待といった、気持ち悪い妥協の産物的記事を連日載せた。松井さんだぜ、かるく、レギュラーをとるにきまってるやんか・・・・・
ウエスタンリーグでは抜群の成績を残しながら、トレード話にも積極的にのらず、下関野球界では池永正明氏につぐビッグスター松井さんは、20代後半で引退。
おそろしいもんです。松井さんの消息について、阪急グループのどちらかでお仕事をなさってる――最大限知りえた情報でした。なんで、それ以上、調べないの?と自問自答をしなかったわけではないが、結果として調べなかった。
えっ、私の野球ですって?
高校野球の制約はなかなかどうしてキビシイもんでして、ちょっと高校生活を人より長めに送ってるうちに、野球部員として認められなくなりましたね。退部ですよ。ムズムズする身体を、微熱のつづく身体を、それでもなだめるために陸上競技にうつっちゃいました。野球ですか、それからの? それは、またの機会に。。。。しっかりと話すときがくると思いますよ。楽しみにされてください。
さてさて、松井満さん。
この2011年の春、江口と久保という小学校以来の野球小僧仲間のはからいで、下関の豊前田にある焼酎バーにいきましたよ。お店の名前は「ドーベル」。そう、くだんの池永さんが福岡で長年やってこられたバーの名前です。
ちゃんと記さなければなりませんね、その「ドーベル」って名前、池永さんから受け継いだ松井さんが開いた焼酎バーの名前として受け継がれていました。酒に弱いはずの私ですが、あまり酔えなかったです。たぶん、一年のなかで私が喋る量の44.4%はその晩だけで使いきった感があります。松井さんとは、なんども握手をさせてもらいました。よくある話なんかもしれませんが、私は、中学3年から高校1年の、アノ時の私にすっかりもどってましたね。
いっても酒の量は、閾値を超えようという勢いで、そんな帰り道の鼻歌なんて、ほんとどんな名曲?であっても、その夜の闇に溶け込んでゆく運命にあるんでしょう。が、が、が・・・・・
その日、実家に戻り、すかさず弾いた曲、ええ、曲ができちゃいました。
「サウダージ~3番・センター・松井~」
です。この5月の下関公演ではピアノソロで、12月の元町公演では、TAKUMIDUOで。これからも、大切な私らDUOの楽曲として演りつづけていきたいと思ってます。
年の瀬に、
ひさびさに語る、あるいは、
ひさびさに呟く。
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今年は、かつて…って、もうほんとうに昔のことだけどレッスンをしていただいた松浦豊明氏がお亡くなりになった。その演奏中の身体のうごき、用いようは、いまでも鮮明に思いかえすことができる。
その意味で、どうにもすっかり軟体動物化してる私の演奏表象であるが、これは物心つく前からそうだったようで、当時の映像や写真が黙ってその証拠をいつでも突きつけてくる。そして、そんな演奏での身体の用い方は、松浦氏のそれと、単純にいうならば対極に位置するものなのかもしれない。
ご存知の方も少なくないと思うが、松浦氏はもともとほれぼれする体躯の持ち主。その体躯を椅子深くにすっぽりとおさめ、悠然と(背筋はピンとのばし)、淡々と(しかしその面は、深い悲しみやすこぶるつきの悦びが溢れだし)、歯切れのよい鍵盤さばきからか高音に移るにつれさらに艶をたたえる「こえ」のような音律で「うたい」、私もこんな演奏家になれるもんならなぁとため息をつきつつ、その演奏を凝視していたことを憶えている。
なんかの機会に、僕は松浦氏の前で、用意万端。悠然と淡々と歯切れよく・・・
松浦氏は、言われましたよ。
「匠くん、だめだよ。キミの弾き方を裏切っちゃあ」
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松井満;山口県下関市立下関商業出身。下商(左胸にSのマークがきらめくユニホームに、オールドファンはさまざまな想いを抱かれるんじゃないでしょうか)時代は、下級生時代は4番。そして、2年秋から3年の引退前までの最後のチームでは、
3番・センター・松井満・背番号8
私が、松井さんをはじめてみたのは中学3年生のとき。僕自身が野球仲間と進学を考えていた学校が秋の県大会を快進撃、「いやぁ、これやったら、ひょっとして甲子園、わしらいけるかもしれんぞ」とうかれついでに、敵校(笑)視察をかねて下関市営球場にいった、とさ。
3番・センター・松井満・背番号8
高校2年生の彼が打ったショートライナー、ショートがちょっとジャンプしたもののボールには惜しくも触れず、これが アパッチ野球、もしくは現役バリバリの中西太の打撃なら、そのショートをこえた打球がそのままグーーーーンと伸びて、そのままバックスクリーン左近くへ、いや場外に消え去りもするのだろう。松井さんは、残念ながら、違っていた。しかし、違ったといっても、僕のリアリティなんぞでは松井さんのそのときの打球を捕捉することはできなかった。松井さんのバットから放たれたボールは地上からほぼ一定の高さで、そのまんま左中間のイチバン深いフェンスにダイレクトにぶちあったのである。
なぜ、松井さんは県内最強チームを牽引していながら、甲子園にいかなかったのだろう。いや、いけなかったのではなく、ぼくにはあえて「いかなかった」ようにしか思えなかった。そう、松井さんは甲子園出場をあと一歩のところで逃したのである。松井さんが甲子園を断念した夏、高校1年生の僕は、とうぜんながら松井さんのバットスイングを真似し始めていた。在籍していた野球部での練習中、フリーバッテイングはもちろん、シートバッティングでも、5本打つと3本はフェンスをこえるようになった・・・が、それはどれも力なくふわふわとナサケナイ放物線もどきを描くだけだった。
明治大学に進学するとばかり思っていた松井さんが、1974年秋、阪急ブレーブスにドラフトにかかった。高卒外野手で「2位」に、世間は驚愕した。が、ごく一部の地元の野球小僧は「1位」ぢゃないのが不思議でならなかった。けっして、世間をしらなかったのではない、相対化できていなかった?…ふざけるな。福本・加藤・ウイリアムス・蓑田と、スポーツジャーナルは「ビッグネーム」を並べ、そこに割って入ることの難しさと期待といった、気持ち悪い妥協の産物的記事を連日載せた。松井さんだぜ、かるく、レギュラーをとるにきまってるやんか・・・・・
ウエスタンリーグでは抜群の成績を残しながら、トレード話にも積極的にのらず、下関野球界では池永正明氏につぐビッグスター松井さんは、20代後半で引退。
おそろしいもんです。松井さんの消息について、阪急グループのどちらかでお仕事をなさってる――最大限知りえた情報でした。なんで、それ以上、調べないの?と自問自答をしなかったわけではないが、結果として調べなかった。
えっ、私の野球ですって?
高校野球の制約はなかなかどうしてキビシイもんでして、ちょっと高校生活を人より長めに送ってるうちに、野球部員として認められなくなりましたね。退部ですよ。ムズムズする身体を、微熱のつづく身体を、それでもなだめるために陸上競技にうつっちゃいました。野球ですか、それからの? それは、またの機会に。。。。しっかりと話すときがくると思いますよ。楽しみにされてください。
さてさて、松井満さん。
この2011年の春、江口と久保という小学校以来の野球小僧仲間のはからいで、下関の豊前田にある焼酎バーにいきましたよ。お店の名前は「ドーベル」。そう、くだんの池永さんが福岡で長年やってこられたバーの名前です。
ちゃんと記さなければなりませんね、その「ドーベル」って名前、池永さんから受け継いだ松井さんが開いた焼酎バーの名前として受け継がれていました。酒に弱いはずの私ですが、あまり酔えなかったです。たぶん、一年のなかで私が喋る量の44.4%はその晩だけで使いきった感があります。松井さんとは、なんども握手をさせてもらいました。よくある話なんかもしれませんが、私は、中学3年から高校1年の、アノ時の私にすっかりもどってましたね。
いっても酒の量は、閾値を超えようという勢いで、そんな帰り道の鼻歌なんて、ほんとどんな名曲?であっても、その夜の闇に溶け込んでゆく運命にあるんでしょう。が、が、が・・・・・
その日、実家に戻り、すかさず弾いた曲、ええ、曲ができちゃいました。
「サウダージ~3番・センター・松井~」
です。この5月の下関公演ではピアノソロで、12月の元町公演では、TAKUMIDUOで。これからも、大切な私らDUOの楽曲として演りつづけていきたいと思ってます。
・・・・・続く
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