匠三刻#(たくみつどきしゃーぷ)

平田匠と「TAKUMI DuO」応援ブログ。及び管理人の『僕の1日は、昨晩の反省を鼻で笑うことから始まる』

オヨビでない奴!

2007年03月30日 | 漫画映画小説ドラマ
といえば僕のバイブルドラマのひとつだったりするわけですが。
タイトルでもわかる通り、その由縁になった決めぜりふを持つお方は
主演で当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった少年に
「学校行けてるか?きちんと寝てるか?勉強してるか?」
と声をかける優しい(そう、この台詞は優しいと思う)言葉を
かけてあげられる人だったと聞いています。

もともとは「小学生は思ったほど子供じゃない」をキーワードに
立ち上がったドラマ《うちの子にかぎって》の
中学生版を創ろうという話から持ち上がった企画。
どこまでもお気楽でお調子者の主人公が、
当時ガチガチの管理教育だった中学校をはちゃめちゃにする
(でもコメディでいくところが味噌)というコンセプトが出来ていくうち、
「こんな中学生の親は輪をかけてお調子者じゃないといかんだろう」
ということになり、お調子者といえばこの人、と、スタッフ間で
共通イメージがなんの違和感もなく湧き上がったと言います。
が、しかし案外歳が離れすぎということでおじいちゃんということに。
間に入ったお父さんがこれまたゆるい大人の代名詞だった所ジョージ。
しかも《うちの子~》のレギュラーだったというつながりもあってぴったし。
なわけで、史上最強の無責任家族が誕生。という話。

脚本家は僕の敬愛する人物の一人、遊川和彦氏。
このドラマが連続ドラマ初脚本。その前に、電波に乗ったという意味でも
自分の人生の中でも、初めて書いたホンが《うちの子に限ってスペシャル2》で
これまたワタシのバイブルドラマです。
最近では、《女王の教室》を書いた人。

まあそんな経緯もあり、これまた当時は珍しい、でも流行りつつあった
今で言うバラエティとドラマの中間のようなテイストのミクスチャードラマが
あったんですね。
脚本家も初だし、30分枠ドラマっていう、今ではNHKぐらいしかやらない企画だし、
裏は水曜日、無敵の週間少年ジャンプアニメ枠で《ドラゴンボール》がやってるし、で
実験的な意味合いもあったんでしょう。とにかくむちゃくちゃでそれがまた面白かった。
今ではさすがに時代を感じてしまう部分もありますが。(DVDボックスでてますよってに)

そこではふんだんにクレイジーキャッツの楽曲からギャグから、ああ遊川さんよ、
あんた、シャボン玉ホリデーキッズなんだね、と容易に想像できるノリがそこらかしこに
現れ、その波の中心には、いつもその優しい方がいらっさったのでした。

(話は少しずれますが。
遊川氏とかけて学校ととけばそのこころは、誰もいない教室での告白未満なのです。
勇気をだせない思春期ボーイの独壇場が常にそこで描かれるわけで。
そのシーンは必ずあるのです。
あるときは早朝の教室で。またあるときは西日差し込む夕方の教室で。
《女王の教室》でも、あいかわらずそのシーンは盛り込まれており、
いつ男の子が「俺、オマエのこと、ス、ス、すき焼き食べたくない?」と
言い出すのかとワクワクしてしまった自分がおりました。
あ、《うちの子~2》じゃ成功してたか。
とにかく、遊川さんよぉ。わかる奴がここにもいるぜ。名古屋にもいるぜ。
Comon!遊川!もっとこい!つーわけで以上蛇足)

さて、このドラマがごく一部の熱狂的なファン(笑)に惜しまれつつ終了した後、
しばらくたって、何なのかきっかけは忘れたが、無責任男再評価の気運が盛り上がり、
「スーダラ伝説」なんていうリミックス版が発売されちゃったりして、
何か当時から「おせぇよ、ばか」とぶつぶつ言っていた記憶があります。
90年代前半の出来事ですね。変わんねぇな、俺。


なんだか思い出話とドラマオタクなうんちくに終始しそうなので一つ気張っとこう。

笑われるのか。笑わせるのか。
関西系の番組でたまにみかけますが「その人は普段はバカやってるけど実は…」っての。
う~ん。という感じです。
当然一人一人のストーリーには感嘆するのですが、それを同じ芸人が持ち上げているのが
なんともな。人によっては自分で意気揚々と言い出す人もいるし。
何を勘違いしたのか「俺らで笑えない客が悪い」と言い出して、
一時、姿を見かけなくなった芸人さんもいるとかいないとか。

自分で言っちゃうのはネ、野暮じゃないのかな。と思ってしまうのです。
第三者の声がそれとなく聞こえてきて初めて、偉大だな、と思われれば
いいんじゃなかろか。

笑われているのか、笑わせているのか。
それは手前の心の内だけの問題だろうと思うのです。
人前に立って、目の前の人が笑っている、
その事実だけが全てで、その他に何を望むのか、と思います。

それでもまあ、いかんせん「世間はベタだ。」と息巻いて調子に乗っていた
(今もそうか)自覚のある身としては、
道行くねぇちゃんにーちゃんオヤジオバちゃんに
「あいつ、バカじゃね?」なんて言われて無性に腹が立ってしまう気分が
わからんでもない。
理想はお茶の間でテレビ見つつ、子供がタレントを小バカにしだしたら
「あんたはな~んもわかっとらんのだわ」とペチッと頭を叩く親御さんの図
だったりするんだが。

それでも一つ言えるのは、テレビの創世記にバラエティの基礎を作り上げ、
お茶の間を爆笑の渦に巻き込み、最初、無責任男を演じるにおいて、
自分の素からあまりにかけ離れたキャラクターを演じることにかなり悩みつつも
ぐっと乗り越え、高度成長期のある種、病的とも言える(?申し訳ない)な
会社への奉仕精神に笑いを添えて突っ込みを入れた、
植木等の、植木等を演じきったその姿勢にひたすら感服するということです。


安らかに。




コンビニの

2007年03月28日 | 漫画映画小説ドラマ
店員のおばちゃんのことなんですけどね。
あ、お久しぶりッス。だんな。まあ聞いてって下さいな。

でね、まあ、あっしも忙しくてね、
さらっと深夜に仕事したりとかするわけですよ。
で、コンビニに夜食でも買いに行くわけです。
そこにいるわけですね、おばちゃん。
ろくに会話も交わさずに買うもん買って、とっとと仕事に戻るわけなんですが。
いうても店員と客。それ以上の関係ではないわけで。

で、徹夜ほどじゃないにしろ、家には寝に帰るだけ、朝、暗いうちに起きて
即出勤なんかしちゃったりなんかりしちゃったりして、
早朝にそのコンビニに朝食買いに行くわけですよ。
いるんですな。そのおばちゃん。
で、ろくな会話も交わさずに買うもん買って、仕事に戻るわけです。
いうても店員と客。それ以上の関係ではないわけで。

まあこんな日々を今現在繰り返しているわけなんですが、
いるんですな、そのおばちゃん。毎日。
おいおいと思って同僚に話してみたら
「シフトが深夜なんじゃないの?」なんてろくに振り向かずに
言うわけですよ。
ああ悪かったな仕事の邪魔して。2,3言の会話をする時間も
惜しいかと思いつつ、
<おばちゃんがコンビニの深夜シフト>ってだけでも
なんかな。ひっかかるというかシュールというか
いかんともしがたい感情がわきあがるわけで。
何を確かめるかしらんが、確かめたくてお昼にコンビニに行ってみた
わけですよ。

いるんですな。おばちゃん。
ていうかね、


オマエ、いつ寝てんだよ!


ってね、叫びたくもなるわけですよ。やりませんがね。
何だろ、もう。なんつーかな、とんでもない理不尽さが僕の心を襲うんで。

イヤ、ここはひとつ優しい言葉をかけるとこだろとか思いつつ、
それが出来なかったりしつつ、
そんな自分に腹が立ち、
いや、事情全く知らないし
本人スキでやってることだし
そこを知って何になるの?とか
聞いたところで何か力になれるの?とか
いやいや、いつからそんなせっぱ詰まった状況を勝手に設定してるんだとか
つーか俺にこんな思いさせんな、いろいろ想像しちゃうだろうが、とか
もう、いろいろ、ごちゃごちゃないまぜになったりして、
カレーはルーとご飯を全部混ぜてしまうタイプですか?とか
混ぜご飯って言いますか?それともかやくご飯ですか?とか
整理つかんわ、ボケ~!

って感じのものが全部混ぜ合わさるとアラ不思議、
世界の中心に向かって愛を叫びたくなるわけですね。
誰か!誰かだずげでぐだざいっ!
僕を。


なんなの?なんだっていうの?
ぶっちゃけミニストップですよ。スキなんですよ。
フロフロのカフェラテ。それとホットドッグを毎日のように買うんでスよ。
もう、僕が店に入った途端、おばちゃん準備し始めますよ。
オーブンにパンを放り込んでるわけですよ。
で、いきなりレジに行くのいやだったりなんかりしちゃったりして、
どうせ読まない《CIRCUS》とか手に取ったりして、
俺、30代。とか意識してみたりして、
取りあえずそれでレジに行く用事作って、
「ついでに」フロフロとホットドッグを買うんだぜ~の体で
臨んでいるにもかかわらず、
既にオーブンには焼き上がったパンが、後はソーセージを挟むだけの状態に
なってたり、
フロフロにはアイスクリームをぐるぐる落とすだけだったりするんですよ。

もう、常連。常連だっつうの。顔見知りもいいとこですよ旦那。
コンビニの常連ってなんだよ。
全部準備万端で渡された日にゃもう、
満面の笑みで「ありあとーござやした~」とか言われても無視ですよムシ。

目とか見れないから視線落とすとね、おばちゃんの指がね、
バンドエイドだらけなんです。え、登録商標?知るかバカ。
もう見えてる肌の面積の方が少ない。
なんだボクサーか?ボクサーなのか貴様?
それはバンテージじゃないぞ。バンドエイドって言うんだよおばちゃん。

なんなの?どうすればいいの?
「あなたの人生に光が差しますようにアーメン」って胸に十字切ればいいの?
だからキリスト教じゃないって。
そういえばそのコンビニの道すがら、クロに黄色の趣味の悪い看板が電柱に
ぶら下がってて、そこに「キリストは罪を取り消す」って書いてあるんですよ。
ふざけんな。キリストは罪を背負ったんだよ。背負ってゴルゴダの丘に登ったの。
ゴルゴ13のゴルゴはゴルゴダからきてんの。13は説明するまでもないの。
都合のいいように解釈しないの。罪は消えないの。背負うものなの。iPodnano。
だから十字架は象徴なの。なんの?罪の。キリストが自分が磔になる十字架を
背負ったからなの。暗喩なの。iPodnano。

さらにそう言えば昔、世界史の先生が
「なぜ本来ならもっと血なまぐさい象徴であるはずの十字架が、アクセサリーとして
定着したのか。そこに選民思想の理解への糸口がある、カモねかもねそうかもね」
とか言ってたのを思い出しついでに以前紹介した僕のバイブルドラマ
《1970 僕たちの青春》では、
ヒロインが主人公に向かって教会裏の芝生の上で聖書を大事そうに抱えながら、
瞬間主人公を見やり、

「聖書って、血の匂いがするでしょ。だから好きなの。」

なんつったシーンを思い出してしまいました。
なんだその芝居がかった台詞は。


なんてことが頭をぐるぐるしつつ、家に帰って寝てたら夢を見ました。
上述の《僕たちの青春》の1シーン。
主人公は僕で、教会の裏の芝生に連れていかれて、言われました。
「聖書って血の匂いがするでしょ」
でもそれを言ったのはヒロインではなくて、コンビニのおばちゃんでした。
おばちゃん、聖書を持った手の指にはバンドエイド貼ってなかった。
でも、血だらけだった。



左の頬をぶたれたら

2007年03月23日 | 雑記
右の頬も差し出せ、とな。
キリスト教に入信した覚えはないのですが、この間ご報告した耳だれの件ですが、
左から出ていたのですが、やはり中耳炎だったのですが、ようやく直ったと思ったのですが、
直ったと思った矢先、今度は右耳が痛くなりだしたのですが、これってやっぱり中耳炎なのnano?
と疑問にも思ったのですが、だからキリスト教に入信した覚えは無いって。

いや、あんまり聞きたくない話ばかり入ってきちゃうからさ。体が拒否してるとしか思えませンのことよ、
奥様。

おふくろさんに思う

2007年03月12日 | 音楽
まあメリークリストマスだの、インターにかこつけて思い出を語っちゃったりだの、耳が痛いと言っちゃその話題に乗っけてみたりだのと、ことあるごとに母ちゃんをネタに出しつつ要するにマザコンだろお前という突っ込みも心優しい皆さんから受けることもなく、日々順調に過ごしてきた身としては、やはりここで一言言っておかねばならないということで勝手に言いますマザコニストのざるそばです、みなさんこんばんじ。

しかし、モリモリとかおしどりのはずだったのにとか、一応何年も連れ添った奥さんにDVばらされ離婚され今度は作詞家さんに叱られてしまっているというなんとも悲惨なシンイチさんですが、これ、あれだね、細木さんあたりが喜び勇んで天中殺だわよとかドーターコパあたりに風水的にはその歌い方がまずいとかいわれてしまうんでしょか?いやはや。神社では女性でも手をたたいて良いそうですよ皆さん。従わなくても地獄に落ちませんよ。

まあ、作詞家さんが言うには「これは俺のおふくろさんじゃあねぇ」ってことらしいんですが、曰く「今でもダメな僕だけど」って台詞がどうにもいけなかったようで。今でもダメじゃダメなんだ。おふくろさんのおかげで今では立派になりました、これからもがんばって生きていきます、なのだ。ってことなんだそうで。なるほど。そらあかんわな。

でも、それでも言わせていただけるとすれば、「おふくろさん」がそれこそ日本で今までどれほどの人に歌われ、愛されてきたのか、想像に難くないですが、この名曲、歌う人ひとりひとりの脳裏に、そしてまぶたの裏に、歌詞そのままのおふくろさんが浮かんでいたのでしょうか。否。きっと否。きっと君はこない。一人きりのクリスマス・イブ。サイレンナイトホーリーナイトサイレントナイト翔ってことで、歌う人の心の中は自分のおかあちゃんの思い出で一杯だったのではないかと思うのであります、ケロロ軍曹。だってお袋さんだぜ?

これを「私のお袋さんの歌だ!」と豪語したければどうぞタイトルを「おふくろさん」ならぬ「◯◯◯◯」すなわち、自分のお袋さんの名前にすればいいんじゃん?もしくは「俺のおふくろ」とかさ、そんな感じ。まあ、それでもこの名曲どんなにタイトルを変えたところで、きっと世に出れば世の人々が世の人々それぞれのおふくろの思い出を乗せ、過去に思い馳せ、ひとり歩きしてしまうことは免れない、否めない。好き嫌いは否めない。セロリがスキだったりするんですよね。

優れた芸術は様々な人の思いを乗せて独り歩きする。独り歩きできる、ものなのではないのでしょうか?それだけ支持され、かつ懐が深いゆえに多くの人々に愛されるわけで。


例えば1+1=2って数式を「1+1=3にできるかもしんないじゃん」って台詞に感動を覚える方もいらっしゃるかもしれませんが僕はそんなのは嫌なのです。ルールっていうとまたいろんなイメージが付加されちゃうから、なんていうかそう、「秩序」ってやつに言い換えれば、1+1=2っていうのは秩序そのものであってこれが違う解を持つ可能性があるなんて言われた日にゃワタシャ恐ろしくて表を歩けません。そんな不安定な世界、確実なものがない世界なんて不安で仕方がない。故に作詞家さんの「おふくろさん」はこういう解釈をしなければいけない、ってのはあると思います。今では息子は立派でなきゃいかんのですよとりあえず。1+1は2であるべきか、ってのは僕の中では論外で、ただしかし、だがしかし、1+1=2という事実自体に何を思うかは、自由だ~!とフォークギターをかき鳴らしてみたいわけです、古いッスね少し。

でもって、おふくろさんが「3+4=7」だったとして、それがどうあっても3+4でなければダメだ、という主張にはちょっと賛成しかねます。別に1+6でも2+5でも1×7でもイイじゃん、7なんだから。これはアリなんですわって、いかんKUMONのCMパクっちゃった。これどっかに訴えられちゃう?KUMONから「今後一切ざるそばは数式を書くな」って文化庁に進言されちゃうかなあばばばば。

だって何かを世に出すってそういうことじゃないスか。自分とまったく同じ世界を共有しろって無理な話じゃないスか。ソ連はとっくに崩壊してんじゃないスか。大事なのは「7」であること。それだけは譲らないこと。にあるんじゃないかと。今回それを感謝や後悔や懺悔や誓いや贖罪や全部ひっくるめて、おふくろさんへの「愛」だとするならば、ほら、十分すぎるくらいに伝わっていますよ。

とにかく伝えたいのは7だっていう事実や思いであって、それが3+4でなければならないことはないだろうと思っちゃダメですかね?もちろん作者は3+4だと言っていることは理解した上での話ですけドね。
(最近は確かに「作者は3+4である」っていう共通解釈を持つということがないがしろにされているような気がします。玉虫色の伝家の宝刀「人それぞれなんだから別にいいんじゃね?」によって)

僕は1×7の方が好きだなぁと思う人いれば、いやいや2+5なんじゃないの?があって、「あ、私も1×7がスキ!」ってなって、じゃあ俺らつきあっちゃおっかってなって、ハッピーウェディングおめでとうってなっちゃって、やがて二人の間に大切な宝物が出来ちゃって、ある日、目の前に現れて、その微笑みを微笑みで返しつつ、「1+1が3になったね」「ああ、これから4にだって5にだってなるさ」「そんなにがんばれないわワタシ」なんて頬を染めたり、なんてハイソ(笑)でロハス(笑)な会話してんじゃねぇぞコノヤローってことで、そんな話があればそれはそれでイイじゃナイスか。


でもあれだな。こういうことがそこかしこにあってそれでまた世に君臨する名作が影を潜めるってのはつらいな。やっぱおふくろさんは森進一さんが歌わなければってのはあるでしょう僕はある。加えてあの特徴的過ぎる声と歌い方。財産です。財産ですよ。ここはほら、森さんのおかげで随分食べさせてもらっているはずのモノマネ王者の方たちが人肌脱ぐとこじゃナイスカ、って勝手に思ったり。まずはそう、大御所コロッケ、あ、名前変わってるんだっけ?今のお名前存じ上げませんのでここはジ・アーティスト・フォー・マリー・ノウン・アズ・コロッケ。あなただ。あなたの出番だよ。





イニシエーション・ラブ

2007年03月04日 | 漫画映画小説ドラマ
こえぇえええええぇええっぇえええ!
ってことで皆さん今晩や。つるっとざるそばです。
ほらほら、試験勉強しなきゃとなると、目の前の漫画単行本を15巻くらいまで読破しちゃうとか、大掃除のさなかに先々月あたりの自分が購読してる雑誌を読みふけってしまうとか、そーいういわゆるゲンジツトーヒ系の気分で、自分忙しいとぱっと見、気になった雑誌の表紙・タイトル・ハードカバーの装幀なんかあるとズババアっと買ってしまうのですが、いわゆるひとつの「ジャケ買い」ってやつですよ奥さん。(本家?CDなんか言うに及ばずそういう風に買うことの方が普通)でもってその際気をつけることは、とにかくジャンルだけはばらばらにすることで、例えばノンフィクションとミステリーとかそんな感じ。で今回、今し方読破しました、乾くるみさんの「イニシエーション・ラブ」の感想が冒頭ですよ。

って、こえぇええっぇえええぇえ!

って何が?うん、それはいろいろあるんででもネタバレになっちゃうんで興味があったら読んでみてくださいねってことで、以下、ネタバレ。(ってほどでもないけど「ここまで言ったらネタバレでしょって定義は人によってものすごく違うってことを嫌というほど思い知らされてきたもんで、ついでにかなりの線までネタバレ。だってそうしないと感想なんて書けないもん、感動なんて伝えられないもん)



まあミステリーなんですわ。これだけでネタバレなんですが。僕自身もこの予備知識がなければ「なんだよピンとこない恋愛小説だなぁ、俺アンま好きじゃないんだよなぁ。恋愛絡みの80年代後半回顧系ならスピリッツの『東京エイティーズ』で間に合ってるんだなぁ。あれも後半グダグダだなぁ」と思ってしまうところですのよ、あーた。何しろ《定期 僕たちの世代》って長文コピペが某巨大掲示板で断続的に見受けられるくらい当時、いわゆる80年代~のバブルの息吹から最高潮の時代に高校~大学ライフを送った皆様の直下の世代である僕は(僕らは)、その連中、つまり例えば、《男女七人夏・秋物語》の登場人物に自分を投影して、「俺、奥田瑛二だな。お前はドーセ鶴太郎」なんて会話をしていた人たちには、一種独特な暗い感情をどうしても持ち合わせてしまうのですが(要するにうらやましいわけですが)、この「イニシエーション・ラブ」はそんな時代のそんな若者を主人公にした物語なわけです。

秀逸だと思うのは、まあまずはその仕掛けで、いわゆる最後の一文で「うぎゃー!」となるヤツです。こういうのは面白いですね。大好き。で、その複線およびミスリードに使用されているのが80年代テレビカルチャーだったりしまっす。なにより前述した《男女七人~》は相当に重要なキーワードなんですがそれはね…もうね…。

それより秀逸だと思うのは、作者がこの時代に設定した意味とそれを僕なりに解釈した結論に対して勝手に思うことで。一つは物語のトリックを構成する際に非常に便利だった誰もが知っている大ヒットドラマがこの時代にあったこと、本人自身が63年生まれであること、があると思いますが、そんなものは表面上のことで、なんというか、この話の根底に流れる当時の若い人たち?が皆感じていただろうある感情・時代観?ってヤツが、登場人物の言動の根源になっている気がして(実際言っちゃってますが)、作者はそれをこそ書きたかったのではないかと相変わらずの斜め上の妄想をしてみます。ミステリーで言うところの、たまにないがしろにされやすい動機ってやつが、その時代観に根ざしてるってところがちょっとぐっときてハッとした瞬間でした。

更に言うにはとにかく静岡県のローカル情報が満載で「どこじゃ、それ」って言うのが当たり前のように出てきて、ちょっと巻末みてみたらやっぱり本人静岡県出身だったりして、ああ、なるほどね、こういうのがあなたの青春時代にはあったのね、合コンだ海だ杉山清貴だとそういうわけね、なんて思ったりします。そんでまた、なんだこれ、杉山清貴をコーダエロカッコイイとかオレンゲレンゲに変えれば何も問題なく成立しちゃうじゃん、やっぱ70~80年代若者カルチャーの10年の変遷に比べてそれ以降って動きが少ないんだなぁなんて勝手にシンドバット。茅ケ崎・湘南・江ノ島まで童貞捨てに行かないとな、ってええ、そりゃ湘南爆走族で織田裕二もデビューして就職戦線異状なしで異常な就活してあげく警察官になって事件は現場で起きてんだよとわがままをぶちまけその上県庁の星にまでなっちゃうわな。ああ途中雪山で遭難して戦わなきゃ。何スか?知ってますよわかってますよ嫉妬ですよshit!ですよ。

ちょっと脱線してしまいました。国鉄いやさJRに置き石しちゃった気分で申し訳ない。
とにかく面白いんだがや、いったん読んだってちょ~よ~と負けずにローカルめいてみたところで駄文はおしまい。

一緒に買ったカポーティの「冷血」は当分読めなさそうです。
同じ「一行でウギャー系」の東野圭吾の「手紙」もまだ読んでませんのことよ、奥様。
それどころか友人に借りた「幻夜」さえも読んでませんのことよ、鈴木さんとこのご主人。
はよ返せって?ごめんね。