前回記事
お久しぶりです。
かわいい美人のパルキズムです。とか言おうとしたら既にこのネタ忘却の彼方。もっと大きなことが起こってしまったので悔しくて仕方ありません(ウソ)。松葉杖は得意なのに(経験者)。
まあここで政治について大いに語ることも、空気読まずにやろうと思えば出来ることなのですが、やりたくないのでやりません。
なんて態度を貫いていると、どこぞの方より「あなたは【映像作家】だから理屈は苦手よね。俗世間には興味ないのね。感覚派よね。まー高尚ですことほほほほほ」なんてことを言われるので如何ともしがたいのですが。
ひとつだけ言っておけば、僕は政治ってのはすっげぇ頭の良い人がやることだと思ってて、外に出てくる「結果」なんて裏でさんざスッタモンダあった挙句のクソッカスだと思ってるんで、それについて語るならせめてファーストソースを追いかけることまでいかなあかんだろうと思ってて、それは現実問題、僕のプライオリティのかなり上位にこないとできないことなんだけど、それでもそのクソッカスに意見を添えるならば、あくまでできるだけ感情を排した解釈の後に「僕の世界」での対処方法と打開策を見いだしつつ、ちょっとだけマクロ的な視野で希望的観測を述べたいなーなんて思ってるのです。
(仮に僕が政争の渦中に巻き込まれるような立場に偶然居合わせることができたとして、なんかやろうにもきっと三日も持たずにいなかったことにされるだろうなーと思うですよ笑)
たいていの場合、人は、世の中の物事に於いて傍観者でしかいられないと思うのですが、だからこそ自分の立場から見えるものについて、その立場で知り得ることについてのみできるだけ正確に、誠実に、愚直に考え応えていく、答えていくことは、あるべき姿勢だと思います。そういうことを継続的にやられている方を尊敬もします。
また、僕は、事務処理能力(整理)と想像力(構築)と展開能力(説明)は全く別系統のスキルだと思ってるんで、それら全てを一人の人間に委ねるのはちょっと酷いんじゃないかと思うところもあります。クリエイトとエンターテインメントを両方高いレベルで維持できたら天才だよそりゃ。だから政治家と官僚がいるわけで(当たり前すぎる)。
要するに○トぽっ○をルー○ーよばわりしときゃOK的な空気になんて絶対乗るもんか、っていう天の邪鬼さんですよ、と言いたいだけなんですが。
まあですからここでは前述の方々のご要望に応えて「そんなことよりカルチャートークしよーぜッ!」って感じのことを書こうと思います(さんざん書いといて)。
こんな記事見つけたことだし。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20100604-00000301-trendy-ent
いやー。
文章へったくそだなー笑
「良い曲+企画=ヒット」
ということだそうですが、言い方は違えど至る所で同じようなことはいわれていますね。
僕が最近目にしたのは、Google日本支部の社員になった人の言葉、
「コンテンツではなくデリバリーの問題」
です。内容(コンテンツ)でなくて伝え方(デリバリー)が重要だよ、ということで。
内容がどうでもよいというわけではなく。
例えば場末の居酒屋当たりでよく聞かれる愚痴で「誰も俺のことをわかっちゃくれない」なんてセリフがきかれますが、それは「俺」本人が否定されているわけではなく、「俺」の表現方法が間違っている場合が多い、ということだそうです。
人は皆、それぞれ違うデータベースを参照して生きているようなものですから、それぞれに通じる共通言語を使用しなければ伝わらない、という意味と、前述の記事にも有る「企画」といいかえてもいい「方法」を練る必要があるわけですね。
その方法(若しくは「企画」)を、かつては全て背負っていたのが「T.Kプロデュース」ってことなんでしょう。思えば、この魔法の言葉を背負うことで曲のブランド化が図れていたわけです。同時に、前に出る人間がパーツでしかない、という印象を観ている人に理解させてしまったという側面もあると思いますね。もちろんそれは古くから行われてきたわけなのですが少なくとも消費者にはばれてはいなかったわけです。小室以前小室以後に音楽業界を敢えて分けるとするならば、このプロデュースという構造を白日の元にさらした上でのメタ的な理解が消費者に求められているかいないか、ということなんですが、現在の状況をみると、あれ?みんな忘れちゃったの?と思ってしまうこともしばしば。
アニメ主題歌いわゆるアニソンキャラソンがシングルチャートの上位を占める現象について、自称音楽ファンの方々からの嘆きを聞く機会が多いです。そこから音楽業界の低迷を嘆く声に繋げるのがひとつのフォーマットと化しているような気がします。象徴的なのが、もう20年続いている某音楽番組の、必ずジャニー○枠が出演枠にひとつ有る某音楽番組の、もはや伝統芸能の域に達するサブカルグラサン昼メガネ大先生の「超スルー姿勢」です(タモさん大好き)。
しかし80年代、6畳居間の食卓で、ミンチカツを奪い合いながらたのきんトリオについて熱く語り、「発売日の前の日にはもうレコード屋には並ぶから!」と興奮しつつカツの衣を飛ばしあっていた姉妹を目の当たりにしていた僕からしてみれば、アイドル⇔アニメキャラの変換以外に、差し当たって状況が変わっているとは思えないのです。いつの世も歌謡曲(敢えて)というものは、お茶の間の人々にとって、ファンアイテムとして機能してきたのではないかと思うのです。日本語HipHop?の歌詞におけるキズナ感謝率の高さとサビのポップさをみてもそれは垣間見えます。
で、コムロの90年代後半を経由した今、ファンアイテムとして曲が売れている現状を売り上げ枚数でみれば、80年代と比べてそんなに変わっていない、と言える(そうです。手元にはっきりした資料がない、のに、言い切る)。90年代のT.Kプロデュースが売れすぎていた、とみるべきなのでしょう。そのコムロの快進撃の始まりがゲームを元にしたアニメ映画の主題歌だったというのは一種の皮肉を感じますね。愛しくて切ないですね。心強くはないですね。
断るわけでもなく勝手な推測ですが、僕の思うT.Kプロデュースというのは結局の処、
「【企画】としては鈴木アミに歌わせてるけど、君たちが鈴木アミにいつでもなれるんだぜ」
というコンテンツをデリバリーする手段だったのではないかと思うわけです。そりゃ売れるわ、つうわけでね。個人主義全盛の、全ての人が「自分という物語の主人公」時代だったことも相まって。
それでも楽曲には何の罪もない、と言いつつ、これは皮肉でもなんでもなくて、ひょっとしたら、90年代後半が「最も多くの人が音楽と寄り添った時代」って言えるかもしれません。ファンアイテムではなく、曲そのものと寄り添った時代。そう考えると、T.Kプロデュースってのは「罪」だけでなく「功」もあったんじゃないかと。「功罪」として語ってもいいんじゃないかと思うのは、感傷でしょうか。
まあ、これから先、何が起きるか分からないけど。
もちろんこれは音楽=歌謡曲をひとつの「商品」として見た場合の考え方であって、僕自身が音楽と向き合うときの姿勢はまた別の物になる、と付記しておきたいと思います。同時に小室哲哉を語るとき、どうしても音楽を商品としてみなければ語れない、という事実に、僕と小室哲哉の関係の悲しさを感じてしまうのです。でも「human system」を…以下略。
どこの馬の骨とも分からないヤツが個人名(つってもここまで名が知れりゃ公人だからなー。俺が知ってるT.Kは「企画」としてのT.Kでしかねーしなー)をさんざ挙げへつらって書いた免罪符として最後に以下の言葉を添えたいと思います。
復活おめでとうございます。上から目線ですみませんが、頑張って下さい。
もう、応援はしないと思いますが。
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いやー、僕の文章も人のこと言えんなー笑
投げっぱなしジャーマン。
書いたことに責任を持たない、と言われました。マジデカ?
練習始めました。まもなく今年最初のDuo live告知ができると思います。