江戸後期,篤農家として世に知られ、小田原を困窮から救った二宮尊徳翁を祀る報徳二宮社が一角に鎮座しますここ、小田原城址公園。
現在、市民公園として、城域には小さいながらもう、動物園に遊園地が設けられ、親しまれている「小田原城」は、徳川家康が関東入封時,大久保七郎右衛門忠世を城主に据えて以来、東海道の要衝(箱根口)として、江戸時代通じて主として大久保家が、政庁として定めた城。
三方を水堀に囲まれたここへは、改修普請中だった馬出門土橋(めがね橋)より進みました。

ちなみに、この先,馬出門は現在「復元」普請中

辺りには、石垣に用いられる“石”に、付箋が付いて置いてありました。
未だ姿を現していない、普請中の門(址)を抜けると、右手に、二の丸御殿址で、今回馬場が設けられた二の丸公園に出ました。

早速、ここで今回,騎射の芸を御披露くださる織部正殿を、陣中訪問。

意気軒昂な織部正殿始め、兵な皆様方にご挨拶をし、この後の、馬上弓くらべでの見事な芸に期待をしつつ、本丸(天守閣)へと向いました。
小田原城天守閣は、江戸時代,大久保家が普請した遺構を参照に、昭和35年に復元されたもの。
その城内は資料館となっていて、2期12代約200年に渡って小田原を治めた大久保家や、それ以前,戦国時代に5代100年近くに渡り、ここを武府と定め、関東に覇を唱えた後北条家の事績を、武具・古文書・衣装などで紹介されていました。
中には、江戸後期に実際あった、仇討に関する資料もあり、僅かな時間で足早に見て周りましたが、中々に面白かったです。
また、天守最上層からは四方眺望することが出来るのですが、南に相模湾,北に箱根山と見、なるほど、東海道(箱根口)の要衝だったということを認識しました。
ちなみに、上杉謙信や武田信玄などの戦国勇将が苦杯を舐めた、後北条家の“城址”は、この小田原城址公園では無く、この北,線路の向側の山裾だとか。
なるほど、天嶮を利用した、戦国時代を象徴する場所かと思います。
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現在、市民公園として、城域には小さいながらもう、動物園に遊園地が設けられ、親しまれている「小田原城」は、徳川家康が関東入封時,大久保七郎右衛門忠世を城主に据えて以来、東海道の要衝(箱根口)として、江戸時代通じて主として大久保家が、政庁として定めた城。
三方を水堀に囲まれたここへは、改修普請中だった馬出門土橋(めがね橋)より進みました。

ちなみに、この先,馬出門は現在「復元」普請中

辺りには、石垣に用いられる“石”に、付箋が付いて置いてありました。
未だ姿を現していない、普請中の門(址)を抜けると、右手に、二の丸御殿址で、今回馬場が設けられた二の丸公園に出ました。

早速、ここで今回,騎射の芸を御披露くださる織部正殿を、陣中訪問。

意気軒昂な織部正殿始め、兵な皆様方にご挨拶をし、この後の、馬上弓くらべでの見事な芸に期待をしつつ、本丸(天守閣)へと向いました。
小田原城天守閣は、江戸時代,大久保家が普請した遺構を参照に、昭和35年に復元されたもの。
その城内は資料館となっていて、2期12代約200年に渡って小田原を治めた大久保家や、それ以前,戦国時代に5代100年近くに渡り、ここを武府と定め、関東に覇を唱えた後北条家の事績を、武具・古文書・衣装などで紹介されていました。
中には、江戸後期に実際あった、仇討に関する資料もあり、僅かな時間で足早に見て周りましたが、中々に面白かったです。
また、天守最上層からは四方眺望することが出来るのですが、南に相模湾,北に箱根山と見、なるほど、東海道(箱根口)の要衝だったということを認識しました。
ちなみに、上杉謙信や武田信玄などの戦国勇将が苦杯を舐めた、後北条家の“城址”は、この小田原城址公園では無く、この北,線路の向側の山裾だとか。
なるほど、天嶮を利用した、戦国時代を象徴する場所かと思います。