郷土の歴史と古城巡り

山崎城(鹿沢城)その5 江戸上屋敷・下屋敷

【閲覧数】4,211件(2011.1.25~2019.10.31)









山崎本多藩のもう一つの屋敷  ~江戸上屋敷・下屋敷~

 本多家の江戸上屋敷は、幾たびかの大火で屋敷替えが行われた。(記録では4回の移転がある。)一番長く居住した場所が、隅田川の河口近くの東京都中央区日本橋蛎殻町(かきがらちょう)1丁目であった。場所は中央区の北半、五街道の起点である日本橋から約1km東に位置する。ここより川を上ると川の景観と桜の名所である隅田公園がある。



▼現在地図と文久年間(1861~64)の地図




 享保17年(1732)山崎藩本多肥後守は蛎殻町1丁目の一角を将軍より拝領し、上屋敷として1864年までの132年の長期にわたって居住した。この上屋敷は2,730坪あり、安政2年(1855)の地図では屋敷の西は姫路藩主酒井雅楽頭11,300坪、西北には銀座4,800坪、南には千坪クラスの旗本の屋敷が3つ配されていて、譜代で1万石の藩としては、格別の配意を得ていたと推測される。さらに下屋敷が本所深川の川沿いの船運のよい場所にあり、そこが家臣の居住地になっていた。


▼下屋敷




 江戸屋敷詰めは、留守居役(江戸家老)を中心に家臣数十人、仲間小者が上・下の屋敷に居住し、人数の総計は100人前後もいたと考えられている。これらの人数は、藩主の外出時の供連れや、幕府から課せられる大番頭、日光祭礼奉行、田安門番などの公役を遂行するのに、そして日常の諸藩務を処理するのに最小限必要なものであった。江戸城中では帝鑑之間詰(ていかんのまつめ)(譜代無城大名としては最上位)であった。江戸における山崎藩の役目としては、毎月の定期(1日と15日)の登城、大阪城加番、禁裡(きんり:御所)の警固、江戸城の警備・門番、日光祭礼奉行、その他があげられる。



▼※享保武鑑に帝鑑之間詰と記載がある

※武鑑(ぶかん):武家の姓名・紋所・知行高・居城・家来の姓名などを記載した書



 江戸での藩の出費は、大大名との付き合いによる交際費が重くのしかかっていたことと、約100人の江戸住いの出費たるや相当のもので、役料の出る幕府の御役を待ち望んでいる状態だったという。



▼蛎殻町の上屋敷の発掘調査で出土した家紋瓦


※火事によると思われる焼け焦げた瓦が多い

「遺跡調査 中央区教育委員会」より



参勤交代について


 江戸時代の大名は、「旅宿の境涯」と言われたという。これは、参勤交代制によって大名は領国から江戸への参勤が義務付けられ、江戸に妻子を住まわせ、隔年ごとに江戸に向かわなければならない宿命からそう呼ばれた。江戸幕府の大名統制のための狙いは、絶対支配の確立のため、藩財力の削減をねらったものとされる。行列は大名の家格によって軍旅に準ずるものとして決められていた。

江戸の風物詩の派手な大名行列の見えない部分では、特に小大名にとっては、多額の旅費出費を余儀なくされ、藩財政を圧迫していたのである。山崎藩についてはその実情が藩庁日誌である覚帳に詳しい。


 参勤交代制度は、寛永12年(1635)武家諸法度により制度化され天保13年(1842)まで約200年間続いた。山崎藩の供連れ(行列参加構成)の家士は48人で、道雇いの人足や宿人足で合わせると120人近くになるという。

 参勤月は、外様大名は4月、譜代大名は6月か8月とされ、山崎藩は5月中旬山崎を出発し、6月上旬江戸到着する。帰国は6月下旬から7月上旬が通例であった。江戸と領国を1年毎に往復するが、葬儀や家督相続等により延期されることもあった。藩主の生活は江戸中心であり、領国の山崎での生活は江戸に比してはるかに少なく、本多支配期間192年のうち藩主が山崎にいた年数はたった60年を満たないほどであったという。これを1年に例えれば、家にいるのは4ヶ月だけで残りの8ヶ月は本庁・地方出張もしくは移動中ということになるが・・・。

 山崎・江戸間の道中の所要日数は16日とされていたが、河川の増水などの交通事情により、到着が大幅に遅れることもあった。文化元年(1804)の覚帳には藩主忠居のときに、大阪城加番役で江戸から大阪まで通常13日が、行き先々の川(富士川・安部川・大井川)の増水で足止めにあい10日も遅れ23日要したと記録されている。

 参勤路の経路も幕府の指示が有り、山崎藩は東海道経由とされていた。場合によってはもう一つの経路の中山道通行も可能であったが幕府の許可を必要とした。藩としては、所要日数の同じである中山道経由のほうが安くついたので本来はこちらの方が好まれたが、実際、参勤交代の回数合計は記録(推定も含む)に75回あり、そのうち中山道経由は5回だけであったようである。天保13年(1842)の出府は中山道通行を計画し許可願いしていたが、出発直前に不許可になったケースもあり、よほどの理由がないと許可されなかったようである。出発直前のマッタによる旅程変更で慌てふためく様子が目に浮かぶようだ。



参考 『山崎町史』、『日本橋蛎殻町一丁目遺跡』、『本多藩時代の山崎』



※諸大名の江戸の記録は残念ながら相次ぐ火事や地震によりほとんど焼失、それをくぐりぬけたわずかな資料ですら空襲で失った。その意味からも、本多山崎藩の192年の歴史を記録した藩庁日誌である覚帳のかなりのものが大切に受け継がれ、藩政と藩内世情を綴った1級の資料となっている。



▼覚帳の一部  (天保時代の国元と江戸分)


本多記念館蔵




【コメント】
タケネットさま  2011年01月29日

大変興味があるリポートに少々興奮いたしました。
山崎藩の上屋敷跡に行ってきました。よく歩いた場所でしたが、ここで山崎藩が132年間も政務をしたところとは全く知りませんでした。箱崎バスターミナルから歩いて1分、ロイヤルパークホテルの斜め前です。
写真でいいますと、真ん中の大きな白いビルが蠣殻町1丁目37番地の12で、そこから4件のビルが山崎藩の敷地と推定できます。江戸時代の地図ではむしろこちらが
裏側のようですね。現在の番地では蠣殻町1丁目32番地、33番地、36
番地、37番地でとても広いです。広さでいうと山崎小学校のグランドくらいあります。





地図の年代は1859年現在です。




返信
コーゾーさま  2011年01月29日

早速の江戸上屋敷レポートありがとうございます。
コーゾーさんのことだから、きっと確認されると予想はしていましたが、一週間もたたない間に現地レポートしてもらって、うれしく思います。私も上京したら立ち寄って見ようと思っています。ついでなので、上屋敷のことでさらに付け加えさせてもらいます。

 蛎殻町一帯は、天正18年(1590)家康の入府後に埋められて宅地化されて「浜町」と呼ばれる土地の一部となった地域で、江戸時代は町人地ではなく武家地で「かきから」という俚俗名で呼ばれていて正式な町名は明治4年(1871)の廃藩置県のときだそうです。
 ちなみに、本多肥後守のあと、元治8年(1864)遠江浜松藩井上家が所有し、その後、宅地として細分化されていったようです。「日本橋蛎殻町一丁目遺跡」より

 地名の由来ですが、「昔は漁師の小網の干し場であり、牡蠣の殻の堆積した海浜であったらしいのですが、町名の由来は明らかではありません。」とありました。

※中央区の地名由来 http://chimei-allguide.com/13/102.html  より



【関連】
山崎城①~⑨

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