(2019.3.25~2019.10.31)
山城に興味を注いでくれた最初の城は、備中松山城だった。江戸時代の城のほとんどが山麓や平地に築かれているのに対し、この城はなぜか高い山頂に築かれ、今もなお美しい天守が備中高梁の地を見守っている。
案内板の沿革をみると、昭和の初期高梁中学校の一教師の地道な城の調査結果がその保存の契機となり、有志による保存会が発足し、朽ち果て崩落寸前で食い止められたという。

▲天守


▲三ノ丸から二の丸への長塀

▲天守の窓から

▲大手櫓門跡から二の丸を望む

▲三の丸から二の丸方面を望む

▲崩壊寸前の本丸(昭和初期)

▲二重櫓
備中松山城と城主のこと 岡山県高梁市内山下1
備中松山城は、高梁川を天然の堀とし、臥牛山(がぎゅうざん)の峰の一つ小松山(標高430m、比高350m)上に築かれた天守閣を現存する日本唯一の山城である。日本の三大山城の一つとしてあげられている。
この城は、鎌倉時代に有漢郷(うかんのごう)(現高梁市有漢町)に地頭としてやってきた秋庭重信(あきば しげのぶ)が臥牛山の大松山に砦を築いたのを起源とし、天和3年(1683)に水谷勝宗(みずのや かつむね)によって3年がかりで修築され、今の天守となったという。

▲備中国松山城図 (国会図書館蔵)

▲城内の案内板より
この地域は備中国の中心部、山陰と山陽を結ぶ主要地であるため、戦国時代に入り備中松山城争奪戦が目まぐるしく繰り広げられている。その動きをたどって見るとこの備中とその周辺の地(備前・美作・備後)の中世の歴史が面白い。
戦国時代後期には備中の星田や成羽を地盤とする国人領主の三村氏が備中の半分を治めるほどの力をつけたが、宿敵備前の宇喜多氏が前に立ちふさがり備中国制覇の野望は打ち砕かれ滅びてしまう。その宇喜多氏は、織田と毛利の戦国の巨大勢力の狭間でしたたかに生き延びたのである。
中世の世が去り、江戸時代に入ると、この地に小堀政次・政一父子が奉行代官としてやってきた。茶人で有名な小堀遠州とはこの小堀政次の長男政一であり、築城や造園などにも精通し、この松山城の設計にもかかわったといわれている。
元禄7年(1694年)、備中松山藩水谷家が後継ぎがなく改易となった際、大石内蔵助が主君浅野内匠頭の代理として城の受け渡しのため、この地に滞在している。 しかし皮肉なことに、6年後刀傷事件による赤穂藩取りつぶしにより赤穂城を幕府に引き渡すという無念の役が待ち受けていた。
松山城下屋敷図 幕末頃 (案内板より)



▲往時の町並みを残す




▲武家屋敷(旧埴原家住宅) 市重文
※広報たかはしの「地名を歩く」を紹介します。気に入っています。
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【関連】
→ 備中 松山城 をゆく (2)
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