地名の由来「多賀(口多賀・奥多賀)」 南光町(現佐用町)
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佐用町の平成の合併前のマップ
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佐用町は宍粟市の西隣の町で、中世の武将赤松氏、宇野氏の歴史に関係性があるため、宍粟市周辺の地として取り上げます。
■口多賀(くちたが)
多賀の地名は、高所の「たか」に由来するか。
佐用郡(現佐用町)に属し、中島村の南西に位置。多賀谷の川が千種川に合流する地点。千種川右岸の菰田(こもだ)、左岸の門脇・上々(じょうじょう)の三集落がある。元禄年中(1688~1704)に奥多賀村から分立して成立。明治8年(1875)奥多賀村と合併し多賀村となる。
八幡神社あり、延宝7年(1679)本殿を建立。
享保14年(1729)・延享元年(1744)洪水、宝暦5年(1755)大風。明治8年の大洪水では櫛田村石井との境界にある河岸ハナグリ岩に水が湛(たた)えられ水位2丈ほどであった。また、寛政8年の大洪水は近来最大のものという(久崎村文書)。
■奥多賀(おくたが)
口多賀村の東、千種川に合流する多賀川沿いの狭い谷間にある。元禄年中(1688~1704)に口多賀村を分村し、明治8年(1875)口多賀村と合併し多賀村となる。
字坂根(さかね)に室町時代初期造立とみられる雪花姫宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり、宇多天皇の息女の墳墓との伝承がある。高倉山東山麓の千種川中流域。多賀橋から見て左側の川の突き出た山には、米田城に関係がある砦跡がある。
明治25年前後から畜産・養蚕を副業とし、さらに男子は冬期山林労務に従事する者があり、婦女子はわら芯切りに従事して家計の一助となし、昭和25年前後まで続いた。
多賀村(口多賀村・奥多賀村)の災害の記録
明治23年干害を被り、同24年大地震、同25年洪水があり、同26年田植時には降雨がなく、7月に大洪水があり、同29年は麦刈りの時期に雨が多く、7月台風で住宅の損害が大きかった。同32年には6月に大洪水があり、7月は冷え込み、雨が多く、加えて局地的豪雨で千種川が大増水、夏季には雷雨が多く、9月上旬台風による家屋倒壊、尾根破損、樹木の損害が多かった。以後も洪水・干害のない年は少なく、大正13年まで豊作は2回のみ。昭和13年再び大洪水があった。
◇今回の発見
・多賀村の災害の記録は非常に厳しいものがある。
・多賀谷から東へは三日月の大畑・三原へそして、新宮町角亀に至る山道(オハタザカ)があり、南の谷沿いにさがると上郡鍋倉(なべくら)に続き、相生方面へ行ける山道(オクヤマミチ)があった。各村々の裏山には幾筋もの山道があった。