郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来 「河崎・船越」 

2019-12-18 09:30:22 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来 「河崎・船越」  南光町(現佐用町)

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■河崎(こうざき)
 千種川中流域。伝承によれば、かつて当地と船越との境、小字久保田の北で、道に迫った断崖と、対岸の山の尾根が迫った所とは連なって自然の堤防をつくり、その上は湖沼であった。大山咋命(おおやまくいのみこと)が堤を切り離し川として南流させ、干拓された湖の跡が船越となり、当地が川の始まりとなったから、河崎と呼ぶようになったという。大山咋命を祀った松尾神社の礎石が小久保に残る。
 神社は松尾神社(明治43年中三河の大森神社に合祀)。

 年貢の米・籾・大豆は山崎出石の高瀬舟で網干村まで出し、薪炭は主として下徳久の大田井や久崎から高瀬舟で出荷。

 従来米麦と薪炭作りを主としてきたが、明治中期頃より、牛の優良品種改良・増殖と養蚕業に力を入れた。





■船越(ふなこし)
 千種川中流域。伝承によれば、かつて当地と南の河崎の境の道に迫った断崖と、対岸の山の尾根が迫った所とは連なって自然の堤をつくり、その上は湖沼であった。大山咋命(おおやまくいのみこと)が堤を切り離し川として南流させ、干拓されて人々の生活する場となり、船で往来していた頃の名残で船越と呼ばれるようになった。

 享保年間(1716~1736)頃から安永年間(1772~81)にわたり船越・善吉・芦原の3鉄山が採掘され、当村のみならず近隣の人々が作間稼ぎに鉄穴流・大炭小炭焼や鉄山荷物駄賃稼に従事した。鉄山閉山後は炭・薪をつくり大田井や久崎の高瀬舟により出荷。

 神社は苅屋神社。寺院は真言宗高野山派瑠璃時とその中の一坊であった常福院。瑠璃寺は播磨の名刹の一つで、行基が聖武天皇の勅願によって当地に伽藍を築かせ、堂塔12、末寺12を加えて船越山瑠璃寺と号し、その本坊を南光坊と称すと伝える。寺宝に絹本着色の不動明王二童子像一幅、また応安2年(1369)在銘の梵鐘があり、永和4年(1378)在銘の鰐口は須磨寺・石峰寺のものと並んで県下で最も古い鰐口の1つ。また堂寺奥の院では延享2年(1745)・寛政4年(1792)・安永6年(1777)鉄吹きの操業安全を祈願した額があり、境内には三鉄山庄兵衛の奉納した三界万霊供養碑、船越鉄山定七奉納の加持土砂供養塔がある。芦谷口には享保~安永年間(1716~81)鉄山で働いた人々の50数基の墓がある。

 従来米麦と薪炭作りを主としてきたが、明治中期頃より、牛の優良品種改良・増殖と養蚕業に力を入れた。





◇今回の発見
 船越の瑠璃寺奥の院には鉄吹きの操業安全を祈願した額があり、芦谷口には鉄山労働者の50数基の墓がある。千種北部の天児屋・高羅・荒尾などの鉄山周辺にも墓地が残っている。それは、鉄山繁栄にかかわった多くの鉄山師の痕跡である。製鉄集団は、鉄山師の宿命というべき数十年単位の移動民族であり、茶飯事の職業病・事故(炎による失明、山腹の真砂土掘り、鉄塊の運搬や砕鉄の事故)など、鉄作りに賭けた過酷な人間ドラマがあったに違いない。

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