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郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

但馬 有子山城跡

2020-04-14 11:51:23 | 城跡巡り
【閲覧数】5,466 (2012.8.29~2019.10.31)                                                      

 
 
有子山城のこと   出石郡出石町内町(現豊岡市出石町)
 

▼此隅山城と有子山城の位置      

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▼有子山城図(案内板より)

 


  山名氏の歴代の居城であった此隅山(このすみやま)城は、永禄12年(1569)山名祐豊(すけとよ)の時に秀吉軍によって陥落した。そのあと天正2年(1574)山名祐豊とその子氏政は、此隅山城の南方にある有子山に、山名の勢力を結集して大規模な山城を築いた。それが有子山城である。
 
 しかし、山名の生き残りをかけた最後の要害有子山城も、天正8年(1580)再び秀吉軍に攻められあえなく落城。山名氏政は因幡に落ち延び、父祐豊は落城直後に病死。その後氏政は、豊臣秀頼につき大阪夏の陣(1615)で討ち死にし、但馬の山名は200年で途絶えた。
 
 それ以降、秀吉の家臣の木下昌利・青木勘兵衛・羽柴秀長が城主となったといわれている。天正13年(1585)に前野長康が5万石で入封したが、豊臣秀次事件で連座により改易。文禄4年(1595)播磨龍野から小出吉政が入城する。吉政が岸和田に転封のあと、吉政の子吉英(よしふさ)が残り、山麓に出石城を築くまでは、有子城は山頂にあったと考えられている。 参考:日本城郭大系 、他
 
 


アクセス
 

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 有子山城跡に行くのには、2通りのコースがあります。一つは、最も一般的な近世の出石城から直線的に登る方法。もう一つは、距離と時間が倍になるが東の尾根筋上の城山遊歩道を使う方法があります。ここではその遊歩道を案内します。
 
 出石高校の前をとおり山裾の細い道に入ると案内板(城山遊歩道0.8km・鯵山峠0.9km)が目に入る。 さらに進むと、山中への細い道に入る。入口に道路表示(冬季通行止め)がある。
 


▼案内板                          
 



▼山麓に道路表示
 
 鯵山(あじやま)峠の手前に案内板とゲートがある。地図を見ると有子山城跡までは城山遊歩道で2km余り。車の乗り入れは禁止されているようだ。近くに車を止め、ここから歩くことになる。
 


▼近畿自然歩道の案内板                




▼城山歩道の入口 城へは2km余り

 


歩くほどに木々の隙間から南方面の集落と山々が見え隠れする。しかし、あまり展望は期待できない。
 
 


 
  稜線上のなだらかな道が続いたあと、前方が開けその先に、有子山の上部が見え始め、そこから道はやや下りに転じる。途中、大きな竪堀が確認できた。ここから城域に入ったことを確信し進む。道路確保のために切り開いた南の岩場筋を回り込むと、いよいよ本丸近くまでやってきた。

 
▼道の向うに有子山が          



▼最初の大きな竪堀
 


▼ガードレールのある山道                             



▼本丸の南斜面の広いスペース


 
 本丸へは、途中ロープが用意されていて、そこを登りきると本丸に達した。
(所要時間45分)
 

▼この上が本丸                     
 

 
広々とした本丸にはベンチが設けられている。ここからの展望はすばらしく、これまでの疲れを忘れ、しばし釘づけであった。
 

▼本丸に設置されたベンチと説明版          


▼本丸から見た出石の街と出石川
                        
 



 有子山の標高は、此隅山(140m)の2倍以上の321m。本丸の広さ40m×24m。広々とした本丸最上部からの見通しは此隅城のそれとは大きな違いを感じる。真下に但馬の小京都と言われる出石の街並みが手に取るように一望でき、出石川が有子山を南からぐるりと取り巻き、ゆったりと蛇行しながら、北の豊岡盆地を目指している。
  次に、本丸の虎口を降り、西の丸につづ曲輪を探り、そのあと、通称千畳敷と呼ばれる侍屋敷に向かった。
 


▼本丸の石垣                               


▼本丸の虎口
 


▼西の丸の下あたりから見上げる                          




▼本丸南の石垣が一部崩壊 


 
 
▼本丸南に平場(馬場?)が西の丸まで続く      


▼5mほどある「西の丸」野面積の石垣は見もの

 

 千畳敷は名前の通り、幅50m奥行140mの広さをもつ。その周りは急な崖状になり、その先には堀切がある。中どころに石列による段差が設けれている。この場所に多くの館が並び、軍勢が立てこもり、迫りくる秀吉軍を待ち構えていたに違いない。
 


▼大堀切(左本丸・右千畳敷)                




▼千畳敷の中に敷かれた石列
 
 
 
帰りに山麓の出石城に立ち寄り、ここからの登山口を確認する。

 
 
▼出石城からみた有子山城跡         




▼稲荷神社(城山稲荷)の真っ赤な鳥居群をくぐる  
  


▼鳥居を抜けると有子山登山口           



▼本丸まであと980mの表示あり




 
雑 感
 

 落城した此隅山城の別名が、子盗城といい、此隅(このすみ)が子盗(こぬすみ)につながる城山だったので、移った山を有子山と名付けたという面白い話がある。
 
 有子山城は東からの連峰の西側先端に位置し北南とも急斜面や断崖をもち、出石川という天然の堀を持つ。歴代山名氏の居城此隅城の落城を機に、5年後に2km南の此隅城より倍以上の高さの有子山に城を築いている。

 羽柴秀吉軍が、養父から郡境の浅間峠を通り、有子山山麓の福成寺に陣取り、山頂の有子山城を激しく攻撃したと伝えられている。急峻な要塞であったが、落城ははやく、城主は因幡へ逃亡したという。
 今に残る山頂の石垣は、職豊時代のものとされている。


【関連】
此隅山城跡

◆城郭一覧アドレス

但馬 此隅山城跡

2020-04-14 10:53:29 | 城跡巡り
【閲覧数】4,369(2012.8.18~2019.10.31)


 
 但馬地域では、まだ高峰の山肌に残雪が残る4月上旬。豊岡市出石町にある山名氏の居城跡を目指した。その目的は、15~16世紀に赤松氏の宿敵であった山名氏の居城此隅山(このすみやま)城跡と有子山(ありこやま)城跡を訪れることだった。

 
 
▼此隅山城跡 南からの鳥瞰 

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▼兵庫県北部但馬地域                   



 
中世の雄「山名氏」と「赤松氏」
 
  この但馬国(兵庫県北部)とその西につづく伯耆(ほうき)国・因幡(いなば)国(鳥取県)の3国は、山名氏が二百年余り守り抜いた所領地なのである。その南の中国山地を国境にした播磨・美作に赤松氏がいた。山名にとっては赤松は同時期の最大の宿敵であった。
 
 ※嘉吉の乱(1441)で山名宗全(持豊)は、幕府追討軍の総帥に任命され、赤松満祐を城山城(たつの市)に追い詰め打ち滅ぼした。結果、赤松惣領家の所領は、ほとんど山名氏に奪われてしまった。没落した赤松氏は、長禄の変(1457)でその遺臣が南朝に奪われていた神璽(三種の神器の一つ)を奪還して後南朝の後裔(こうえい)を殺した手柄により幕府より再興が認められ、山名氏との抗争が再燃する。京都を焼き尽くした応仁・文明の乱(1467~1477)のあと赤松政則は播磨守護職に返り咲くが、またしても宿敵山名氏と生野の国境で交戦し敗北。弱体化した播磨は播磨錯乱と呼ばれる争乱に追い込まれることになった。
 
 
 
此隅山城と城主山名氏のこと 出石郡出石町字宮内(現豊岡市出石町)
 
  此隅山城は、応安5年(1372)、山名時義が但馬守護になり、その後200年間13代にわたって但馬を治めている。山名時義の頃、此隅山城を築き、以後山名氏の歴代の居城となった。
 
 



山名氏の興隆
 
  山名氏は元は関東の新田氏の一門から発し、上野国多湖郡山名郷(群馬県高崎市)を本貫地(発祥の地)とし、山名氏を称した。南北朝時代は足利尊氏従い、尊氏が室町幕府を開くと、山名時氏は幕府の要職(侍所・所司)につくとともに、山陰・但馬地方の守護大名として権勢をふるった。
 
  山名氏が最も勢力を極めたのが、山名時義のときで、山城・丹波・丹後・但馬・因幡・美作・紀伊・和泉・出雲・隠岐の11カ国の守護となり、当時の全国66国の内の11カ国を山名一門が占めたため、六分一衆、六分一殿と称され、室町幕府を支える守護大名として最大勢力を持つことになった。
 

 
▼勢力図 明徳の乱直前(1390年頃)

 


 しかし明徳2年(1391)明徳の乱(将軍足利義満の陰謀による山名氏一族の内紛による乱)で但馬・因幡・伯耆の3国に縮小した。そのあと山名時熙(ときひろ)のとき、備後守護に任せられ、一門が但馬・因幡・伯耆・備後・石見・安芸の国の守護となり、管領細川氏に肩を並べるまでの勢力を回復した。
 
 
▼勢力図 山名時熙期(1430頃)

 


 そして嘉吉の乱によって滅亡した赤松氏の所領(播磨・美作・備前)を継承して、山陰(但馬・因幡・伯耆)・山陽(備前・備後・安芸)・播磨にわたる9か国をもつ有力守護に成長して、ついには管領細川氏をしのぐ勢いとなり、山名宗全(持豊)のとき、応仁・文明の乱の西軍総帥となり、この此隅山城に集まった一門は計2万6000騎。その軍勢を引き連れ京都へ出陣している。
 

▼勢力図 応仁・文明の乱直後(1460年頃)

 


永禄12年(1569)、山名祐豊(すけとよ)の時、羽柴秀吉に攻められたことにより、祐豊はより高所にある有子山城(出石城)に居城を移し、城は廃城となった。
 
※参考:「山名氏の城と戦い」 兵庫県立考古博物館
 
 


アクセス      
                 
▼東方面からの鳥瞰 古代学習館模型より
 

 
まずは、いずし古代学習館を目指します。 学習館の左裏の山裾に登り口がある。標高140mの此隅山に築かれた山城への出発点である。フェンスを開けて、落ち葉の階段を登っていく。
 

▼上部(北)が学習館 登山口のマップより        


▼学習館の裏の登山口  
 

 

所々に説明版があり、古墳や中世の山城の基本的な構造がやさしく説明されている。
 


 
 
やや急な山道に入るとロープが用意されている。その先に現れたのは大きな堀切。
 


  
 
 
 どうやら北側からの敵の侵入はここで食い止めているようだ。さらにこの堀切を渡って進むと、中腹の分岐に出た。右方向に進むと土塁が敷かれている。その先は西に伸びる先端部にあたる。


 
 

 


後戻りして、主郭に向かった。山道は岩肌がむき出しになり、南方面が木々の間から展望できる。


 
 

 
 
主郭まで20分ほどであった。大きな自然石を抜けると、主郭は細長い。中央に説明板が設置されている。
 


 


 


 ▼主郭からの西の展望  

 
 

  この此隅山城の主郭は、西方面がほぼ見渡せる好位置にある。ここから見える遠くの山々は残雪を残し、眼下には円山川の支流出石川の流れと、その街道筋が一望できる。
 
 主郭の先を下るとさらに尾根筋に郭が続いている。その先は願成寺跡のある南山麓にいけると思われるが、次の機会にと思っている。此隅山は標高140mのそんなに高い山ではないのだが、なにしろ山全体が城として四方八方防備の手が加えられ一度や二度の探索では城の全貌が見えない山城なのである。
 
   ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇
 

◆出石神社 但馬国一宮 
 

                                


▼山名宗全が出石神社に納めた祈願文

 
   祭神は但馬の開発神、新羅の王子の天日槍命(アメノヒボコ)を祀る。山名宗全(持豊)が出石神社に納めた自筆願文(兄時熙との戦いを決意し、山名家一門を統率できるよう祈願した。(翌年勝利する。)が残る。(市指定文化財)
 


◆古代学習館
 


 
 古代学習館は此隅山北麓にあり、周辺には多くの古墳や遺跡があります。館内には、但馬の古代から近世の歴史を多数のパネルと古代遺跡(出土品)が展示されています。普段写真でしか見られない出土品(模型も含め)を目の当たりにできる学習館です。
   山城に関しては平成7年〜11年にかけて此隅山城下の発掘調査が行われ、守護所や当時の暮らしぶりを伺わせる発見がありました。
 


【関連】
有子山城跡
 
◆城郭一覧アドレス