郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

安芸 多治比猿掛城跡 

2020-04-15 11:32:40 | 城跡巡り
【閲覧数】2,586 (2013.6.23~2019.10.31)                                  




▲多治比猿掛城の全景  



▲鳥瞰 城跡位置図(上部が北)  by Google Earth



 吉田 郡山城跡の次にこの猿掛城跡を訪れた。この城は毛利元就が青少年期を過ごした城としてよく知られている。

 地名は、吉田町多治比(たじひ)。多治比は古代平安期には丹比(たじひ)郷として見え、中世(鎌倉期以降~)には多治比保と見える。この町は、"たんぴ"とも呼んでいる。それは、明治22年(~昭和28年)に、相合(あいおう)、西浦、山部、多治比の4村が合併し、丹比村(たんぴむら)ができたからである。この村名の由来は「和名抄」丹比郷からであるという。



多治比猿掛城と毛利元就    広島県高田郡吉田町多治比(現安芸高田市)

 多治比猿掛城は吉田郡山城から西北5kmの標高376m比高120mの急峻な山上に本丸、二の丸などからなる。尾根つづきに物見台、谷をはさんで出丸がある。位置は、郡山城から石見(いわみ)に通じる交通の要衝であり、郡山城の支城として北の守りの働きをした。毛利氏の同胞吉川氏の居城日野山城は石見との国境に接する北方の山県郡大朝(現北広島町)にあった。

 毛利弘元は家督を長男の興元に譲ったあと、次男の松寿丸(4歳)(のちの元就)をつれて郡山城から猿掛城に移り、27歳までの青少年時代を過ごしている。元就は分家として多治比殿と呼ばれていた。興元が25歳の若さで亡くなり、まだ2歳の幸松丸があとを次ぐも9歳で夭折したため、大永3年(1523)元就が家督を引き継ぐことになり郡山城に移った。


元就の青少年期

 元就が幼少の頃を述懐している。そこには親兄弟との別離と、孤独の中で独力で切り拓いてきたことが記されている。

  「自分は5歳で母と別れ、10歳で父(弘元)を失い、11歳のとき兄(興元)が大内氏に従って京へ上がった。周りには誰も肉親はいなく、孤児(みなしご)の如くなった。それを不憫に思った義母(弘元の側室)が慈しみ育ててくれた」「父から生前猿掛城300貫を譲り受けたが、すぐに譜代の臣※井上元盛に横領されてしまった。兄はそのとき16・17歳の若さである上に、京都にいてはどうにもならなかった。元盛が亡くなってようやく猿掛城に入ることができ、兄も帰国し、力強い思いをしたことだった。しかし、19歳のとき、その兄が早世し、それからというもの、ただただ独力でどうにか世の中を切り抜けてきたのである」とある。
   ※井上元盛は弘元の遺命により元就の後見役となっていたが、実権を握られていた。



アクセス


 吉田郡山城跡の安芸高田市吉田町から多治比川沿いに北西4km走ったところにある。城山の麓の教善寺を目指した。


 
▲周辺地図                                       




▲案内図


山麓に城址の説明板があり、その先に第3駐車場がある。
そこから登城することになる。この上部の墓悦叟院(えそういん)跡地に毛利元就の父弘元とその夫人の墓がある。



▲城址 説明板                      



▲毛利弘元・夫人の墓



標識を左に進み登っていくと、教善寺の上部あたりに広い「寺屋敷曲輪群」がある。


 
▲お寺の上部                                         ▲標識を左に


 
▲お寺の上部からの展望            ▲本丸への道


  
▲寺屋敷曲輪群                   ▲寺屋敷曲輪群の説明板


 このあと、やや急な坂道を登ること約10分で頂上の主曲輪に到着。
 本丸は幅24m奥行き50mの細長い広さをもち、北側には高さ3m、10m四方の櫓台がある。本丸の一角から吉田郡山城のある吉田の町が見える。南側は大きな堀切があり、その尾根伝いの最頂部に物見丸がある。


 
▲急な坂道                       ▲本丸下あたり


 
▲本丸                       



▲本丸の北側に櫓台




▲本丸から吉田方面が見える





▲毛利元就自筆書状(毛利博物館蔵)
 周防国へ出兵した陣中で3人の子に宛てた手紙 安芸高田市民俗博物館収蔵品展「毛利元就」ワークシート



雑 感

  猿掛城は、元就の幼少期に父弘元に連れられて育った場所であり、父の死後、重臣の横領で城を追われ、頼みの兄も遠く、孤独な逆境の中で、良くも悪しきも元就はその後待ち受ける乱世を生きぬくために必要な粘り強い忍耐力と人心を読み取る力を培ったのではないかと。

 安芸高田市歴史民俗博物館で毛利自筆書状三矢(子)教訓の説明書(読み下し・現代語訳)を手にした。毛利自筆書状は三矢の教えの元になったもので、元就の3人の子への自筆書状が残されている。

 そこには親としての子どもへの14か条に及ぶ毛利結束の切実な願いや思いが書き留められている。戦国の世の親も子もない骨肉の争いの中で、長男隆元は跡を継ぎ、二男元春と三男隆景はそれぞれ吉川家・小早川家の養子となり、二人は父の思いを継いで両川(りょうせん)家を盛り立て毛利家を支えた。

 中国の覇者元就が多感な青少年期の過ごした中世の城跡は、今もその形を昔のままに留めていた。


【関連】
・吉田郡山城跡
・月山富田城跡


 
 
 

安芸 吉田 郡山城跡

2020-04-15 09:42:07 | 城跡巡り
 【閲覧数】3,756 (2016.6.21~2019.10.31)   
 



 
 


 播磨の赤松一族ゆかりの城跡巡りから始まった探索は、いよいよ中国地方の覇者毛利元就の居城吉田郡山城のある安芸高田市に向かった。それはいつも以上のわくわくの探索だった。
 
 この毛利氏の居城は一体どのような城跡なのか、一国人領主であった毛利氏が当時の出雲国尼子氏や周防国大内氏の狭間にあってどのように生き延び、中国の覇者になりえたのか、まずはその居城を一度は見てみたいと前々から思っていた。
 


吉田町の移り変り

▲1974年の航空図 (国土交通省)                           ▲現在の鳥瞰 (by google)     
 
 


吉田 郡山城跡のこと  
広島県高田郡吉田町吉田(現安芸高田市吉田町)
 
 
  郡山城跡は、可愛川※(えのかわ)と多冶比川(たじひがわ)の合流地点の北側にある。郡山(標高390m、比高190m)の全域を城郭化した中世末期の大規模な山城である。山麓には吉田盆地が広がっている。 のち、広島城に移転し、この地は城下町から陰陽往来の宿場町に変わった。
 ※可愛川は江(ごう)の川水系の本流で、上流域が可愛川と呼ばれている。中国山脈を北流し、島根県江津市で日本海に注ぎ、川沿いは中世より陰陽を結ぶ交通路として利用されていた。
 

 
 
▲中世安芸国周辺城郭分布図               


▲郡山城絵図(国立国会図書館開示)
 
 
      
       
▲毛利氏系図
 



  城郭の初期は、東南の尾根上に本城が造られ、全盛の元就の時山全体が城郭化され、山裾には堀がめぐらされた。本丸を中心に放射状に270ヶ所以上の曲輪跡が広がっている。
 
 毛利の祖先時親(ときちか)が吉田荘に地頭としてやって来た時分は、一介の国人領主であったが、徐々に力をつけ毛利氏の12代目当主元就のときに急激に勢力を伸ばしている。
 
 元就の父弘元は幕府と大内氏の勢力争いに巻き込まれたため隠居を決意し、34歳で家督を長男の興元(おきもと)(8歳)に譲り、次男の元就を連れて多治比猿掛城(たじひさるかけじょう)に移った。興元もまた地内の宍戸元源との争いが続いたせいか25歳の若さで亡くなるや、幼い幸松丸(2歳)があとを次ぐも9歳で夭折したため、大永3年(1523)叔父元就が郡山城に移り、家督を引き継いでいる。
 
 天文9年(1540)吉田郡山城の戦いで尼子経久の後継者の尼子詮久(のりひさ)率いる尼子軍3万が吉田郡山城を攻め、そのとき武士、土民あわせて8,000の兵で籠城し、大内義隆の援軍・陶隆房(すえたかふさ)の援護を受け、撃退している。このとき既に8,000収容の城といえば、相当の規模であったと考えられる。
  



アクセス
 
 
 ▲城郭探索ルート  歴史民俗博物館前より 時計逆回り
 
 

  山麓に 歴史民俗博物館が建てられいるのでまずはここで、情報入手・下調べをする。 受付で地図を頂き、それを頼りに、ここから徒歩で出発した。


 
 
 ▲歴史民俗博物館 毛利の資料が数多く展示  

▲向うに見える山が目的の郡山城跡
 
 
 
 
 
▲郡山城址碑   


                

▲少年自然の家 右奥に三矢の訓碑
 


 青年自然の家の右奥に三本の矢の記念碑が建てられている。この施設周辺が毛利元就の屋敷跡といわれていたが、発掘ではそれを証拠づけるものは発見されなかったという。
 
 
  
▲三矢の訓碑
 
 
山麓を登りかけた右手の斜面の酉谷(とりたに)地点は、発掘調査により石垣や曲輪跡、版築工法による土塁跡、鍛冶炉跡が発見されている。
 

 
 ▲酉谷地点の石垣跡
 
 

石階段を登ると、左奥に毛利隆元の墓所がある。隆元は元就の嫡男で41才で亡くなっている。

 
 
▲石階段                    ▲元就の嫡男隆元の墓 
  
 
 
右に向かい常栄寺跡(隆元の菩提寺)を抜け、展望台に向かって坂を登る。
 
 

▲展望台からの風景 吉田盆地が一望
 


  展望台からさらに谷あいをぬけ東の尾筋に入る。尾根筋を下っていくと本城の裏あたりに大きな堀切が2箇所あり、西からの攻めを遮断している。堀切を回り込むように登っていくと本城の本丸・二の丸にだどりつく。
  この旧本城は中世の城の典型的な規模の城で、本丸の北には土塁が残り、二の丸が取り囲み尾根筋上に細長い曲輪跡がいくつも見られ、馬酔木(あせび)の群生がつづく。
 


  
▲左尾崎丸、右旧本城                 ▲旧本城へ尾根筋を降りていく
 
 ▲大きな堀切                      ▲旧本城の裏手を回りこむ
 

 
▲旧本城 本丸と櫓跡                   ▲旧本城の本丸からの展望
            

 
▲旧本城の本丸から見た二の丸            ▲尾根の先の風景
 
 

  急な坂道を登りきると、広い曲輪跡がある。それが尾崎丸跡。尾崎丸とは、毛利隆元が尾崎殿と称されたことから、この曲輪跡は毛利隆元の居所ではないかと考えられている。
この曲輪の上部に大きな堀切が2つある。 
 

    
▲この先が尾崎丸跡                   ▲急坂を登りきると尾崎丸跡
      

  
▲広くて長い曲輪が現れる                 


 
 
▲尾崎丸の堀切                     ▲上部の大きな堀切
  

 次に深い谷(難波谷)を右に見ながら登っていくと道標があり、右万願寺跡とある。万願寺は毛利氏が築城する以前から存在していたと伝える古い寺で、寺の礎石跡、蓮池跡が東西に残っている。万願寺は、広島に移り、さらに萩へ、そして現在は防府市にある。この下に妙寿寺跡もある。
 

   
 
▲右に万願寺跡                 ▲万願寺跡 二つの蓮池の跡が残る
  

 元に戻り、さらに進むと勢留(せだまり)の壇の7段長さ250mの大きな曲輪が待ち受けている。文字通り、本丸をめざす敵軍の勢力をそぐための防御となっている。
 

  ▲この上が勢留の壇                 ▲勢留の壇 この下に曲輪が幾重にもつづく
 

 この先には御屋敷跡があり、背部は石垣が散乱している。江戸期に幕命による破城で石垣が崩されたまま残っている。
 
  
 
▲御蔵屋敷跡 背後には石垣が散乱            ▲破壊されたと考えられる石垣が散乱
                  
 
                    
 御蔵屋敷跡の横を右に進むと三の丸の石垣が雪崩状態となり足元まで散乱している。
 

 ▲三の丸石垣跡                       ▲雪崩状の三の丸の石垣
 
 
御屋敷跡の右上に上がると、二の丸があり、本丸につづく。
 


 
▲この上が二の丸                     ▲二の丸の説明板
 
  ▲二の丸の石列 居館の土塀跡?                        ▲二の丸から本丸方面                 
 


  いよいよ本丸に入る。奥にせりあがった櫓台が設けられている。櫓台からの景色は、残念ながら木々が邪魔をして展望はよくない。
 
 
 ▲本丸と櫓(やぐら)台                    ▲櫓台の上部
 

  三の丸から急坂を降りていくと、厩(うまや)の壇があり、その先の尾根筋上に曲輪がつづく。

 少し戻り、崖状にある道を降りると、本丸を取巻く細い道があり、釜屋の壇、姫の丸,釣井の壇に至る。
 釜屋の壇の先に羽子の丸がある。奥行き200m間、中ほどに大きな堀切があり、その先に広い主郭をとりまく帯曲輪といくつかの曲輪がある。本丸から艮(うしとら)の北東の位置にあり、可愛川の東流部から甲山町方面を望む要所の守りとして、堅固な城が築かれている。
 さらに姫の丸、釣井の壇と四方八方の攻撃から本丸を守る隙のない曲輪群が配置されている。
 

   
▲羽子の丸の曲輪の先端と帯曲輪              ▲木々の間から山麓が見える
 
 
 釣井の壇には井戸跡が残る。近くに毛利元就の墓への案内があり、西尾根筋上に急な坂道を降りていく。途中からなだらかな道となり、見晴らしのよい一角に到る。
 
   
                                   ▲井戸跡                
 
 


▲見晴らしのよい一角
 


山麓近くで毛利元就と一族墓所がある。毛利元就の菩提寺洞春寺跡に元就と一族の墓がこの地にまとめられたという。洞春寺は輝元の広島移城の際、広島城下に移転、次に萩を経て山口に移る。
 


  
▲毛利元就の墓                    


▲元就・毛利一族の墓
 
   
▲「一文字に三つ星」の朱色の家紋が映える         



▲百万一心の碑  毛利の墓の対面にある
 

  その毛利の墓の対面に百万一心の碑が後世に建てられている。毛利は人柱の代わりに「百万一心」と彫った石を埋めたという伝説が残っている。長州藩士が城内でこの石を発見したとの記録があるが、その石は未だに発見されずに最大の謎とされている。
 
  毛利の墓を下っていき、鳥居を潜って出た開けた谷あいに大通院谷遺跡があり、薬研掘の内堀跡が一部残っており、ここは城西をとりまく内堀で、さらに南には城を取巻く内堀が延々と続いていたという。
  
  山麓から南西部に、郡山合戦で尼子が郡山城に対峙した青山城・光井山城の陣城のある二つの山が正面に見える。尼子軍が4ヶ月の間に築いた陣城。
 
 
 ▲郡山合戦のとき尼子が築いた陣城跡が正面の二つの山に残る
 


 
雑 感
 
 元就が中国10カ国の戦国大名となるまでに、自らの経験をもとに郡山を鉄壁の城塞とした。それは私が見た中世末期の山城では屈指のものだと思う。
 
 出雲の尼子氏の居城月山富田城跡に行った時、富田城を取り囲んだ毛利氏が本陣とした京羅木山(きょうらぎさん)を眺めたが、この地では目の前の青山・光井山に尼子軍が陣をはった。毛利氏と尼子氏の互いの本城を狙った大規模な戦いは、歴史的事実として、やはり現場に来て初めて実感できる。案内のしおりには、「青山城跡と光井山城跡は4ヶ月間の使用とは思えない多数の曲輪郡が全山に渡り築かれている。」と説明があり、いつか機会があればその辺も確かめたいなと思っている。
 
 ここに来る前は、城跡をどう見て回るかは現地での成り行き次第と決めていたが、歴史民俗博物館で予定外の時間をとったせいもあるが、思いのほか城内の曲輪跡や遺跡が多くて、時間が足らなかった。また周辺の毛利ゆかりの地も気になり、急ぎ足の探索となった。このあと、元就が青年期まで過ごしたという多治比猿掛城跡に向かった。



【関連】
・多治比猿掛城跡
・月山富田城跡

◆城郭一覧アドレス