【閲覧数】2,586 (2013.6.23~2019.10.31)
▲多治比猿掛城の全景
▲鳥瞰 城跡位置図(上部が北) by Google Earth
吉田 郡山城跡の次にこの猿掛城跡を訪れた。この城は毛利元就が青少年期を過ごした城としてよく知られている。
地名は、吉田町多治比(たじひ)。多治比は古代平安期には丹比(たじひ)郷として見え、中世(鎌倉期以降~)には多治比保と見える。この町は、"たんぴ"とも呼んでいる。それは、明治22年(~昭和28年)に、相合(あいおう)、西浦、山部、多治比の4村が合併し、丹比村(たんぴむら)ができたからである。この村名の由来は「和名抄」丹比郷からであるという。
多治比猿掛城と毛利元就 広島県高田郡吉田町多治比(現安芸高田市)
多治比猿掛城は吉田郡山城から西北5kmの標高376m比高120mの急峻な山上に本丸、二の丸などからなる。尾根つづきに物見台、谷をはさんで出丸がある。位置は、郡山城から石見(いわみ)に通じる交通の要衝であり、郡山城の支城として北の守りの働きをした。毛利氏の同胞吉川氏の居城日野山城は石見との国境に接する北方の山県郡大朝(現北広島町)にあった。
毛利弘元は家督を長男の興元に譲ったあと、次男の松寿丸(4歳)(のちの元就)をつれて郡山城から猿掛城に移り、27歳までの青少年時代を過ごしている。元就は分家として多治比殿と呼ばれていた。興元が25歳の若さで亡くなり、まだ2歳の幸松丸があとを次ぐも9歳で夭折したため、大永3年(1523)元就が家督を引き継ぐことになり郡山城に移った。
元就の青少年期
元就が幼少の頃を述懐している。そこには親兄弟との別離と、孤独の中で独力で切り拓いてきたことが記されている。
「自分は5歳で母と別れ、10歳で父(弘元)を失い、11歳のとき兄(興元)が大内氏に従って京へ上がった。周りには誰も肉親はいなく、孤児(みなしご)の如くなった。それを不憫に思った義母(弘元の側室)が慈しみ育ててくれた」「父から生前猿掛城300貫を譲り受けたが、すぐに譜代の臣※井上元盛に横領されてしまった。兄はそのとき16・17歳の若さである上に、京都にいてはどうにもならなかった。元盛が亡くなってようやく猿掛城に入ることができ、兄も帰国し、力強い思いをしたことだった。しかし、19歳のとき、その兄が早世し、それからというもの、ただただ独力でどうにか世の中を切り抜けてきたのである」とある。
※井上元盛は弘元の遺命により元就の後見役となっていたが、実権を握られていた。
アクセス
吉田郡山城跡の安芸高田市吉田町から多治比川沿いに北西4km走ったところにある。城山の麓の教善寺を目指した。
▲周辺地図
▲案内図
山麓に城址の説明板があり、その先に第3駐車場がある。
そこから登城することになる。この上部の墓悦叟院(えそういん)跡地に毛利元就の父弘元とその夫人の墓がある。
▲城址 説明板
▲毛利弘元・夫人の墓
標識を左に進み登っていくと、教善寺の上部あたりに広い「寺屋敷曲輪群」がある。
▲お寺の上部 ▲標識を左に
▲お寺の上部からの展望 ▲本丸への道
▲寺屋敷曲輪群 ▲寺屋敷曲輪群の説明板
このあと、やや急な坂道を登ること約10分で頂上の主曲輪に到着。
本丸は幅24m奥行き50mの細長い広さをもち、北側には高さ3m、10m四方の櫓台がある。本丸の一角から吉田郡山城のある吉田の町が見える。南側は大きな堀切があり、その尾根伝いの最頂部に物見丸がある。
▲急な坂道 ▲本丸下あたり
▲本丸
▲本丸の北側に櫓台
▲本丸から吉田方面が見える
▲毛利元就自筆書状(毛利博物館蔵)
周防国へ出兵した陣中で3人の子に宛てた手紙 安芸高田市民俗博物館収蔵品展「毛利元就」ワークシート
雑 感
猿掛城は、元就の幼少期に父弘元に連れられて育った場所であり、父の死後、重臣の横領で城を追われ、頼みの兄も遠く、孤独な逆境の中で、良くも悪しきも元就はその後待ち受ける乱世を生きぬくために必要な粘り強い忍耐力と人心を読み取る力を培ったのではないかと。
安芸高田市歴史民俗博物館で毛利自筆書状三矢(子)教訓の説明書(読み下し・現代語訳)を手にした。毛利自筆書状は三矢の教えの元になったもので、元就の3人の子への自筆書状が残されている。
そこには親としての子どもへの14か条に及ぶ毛利結束の切実な願いや思いが書き留められている。戦国の世の親も子もない骨肉の争いの中で、長男隆元は跡を継ぎ、二男元春と三男隆景はそれぞれ吉川家・小早川家の養子となり、二人は父の思いを継いで両川(りょうせん)家を盛り立て毛利家を支えた。
中国の覇者元就が多感な青少年期の過ごした中世の城跡は、今もその形を昔のままに留めていた。
【関連】
・吉田郡山城跡
・月山富田城跡