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郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

春一色 つつじと桜そしてモミジの芽吹き

2020-04-04 15:29:36 | 日記

きょうは、青空の広がる好天気、家の中より外のほうが暖かい。

 陽気に誘われて、地元最上山公園に出かけた。



埴尾神社(荒神さん)の上の東屋


山道につつじが咲いていた



つつじが満開





下から見上げた百畳敷の東屋  モミジの枝が黄緑に


最上稲荷経王院の鐘撞堂




向こうに見えるしだれ桜が満開  児童公園にて
 


 
しだれ桜がすばらしい 児童公園の東下


人から聞いて見に来たが、近くなのにこのしだれ桜は知らなかった。






▼モミジの芽吹き 


5月には、新緑さわやかで、
 秋には、燃えたつような紅葉となり、訪れる人たちを魅了してくれるだろう







播磨 中道子山城跡

2020-04-04 08:46:24 | 城跡巡り
【閲覧数】4,707 (2013.1.21~2019.10.31) 
 


 
▼中道子山城全景(西より)              




播磨 中道子山城跡のこと   加古川市志方町岡

 中道子山(ちゅうどうしさん)城は、標高271.5mの地元では城山、ちゅうどうすさんとも呼ばれている山頂部にある。多くの曲輪群・土塁・堀切を備えた東播磨では中世の代表的な山城である。
 西山麓に安楽寺があり、その寺記には、弘仁2年(811)、弘法太師の弟子真紹(しんしょう)上人の開山で無量寿院を創設したのに始まり、本光山中道寺と改号し、赤松氏則が城を築く際、山麓に移されたとある。 「志方荘園古城図附註」には「城は至徳年間(1384〜1386)赤松円心の4男※氏則(範)が築城を始めたとある。しかし、赤松氏則(繁)の死亡は元中3年(1386)であることがわかっているので、もし氏則が築城したのであれば、これ以前となる。ただその頃は、南北朝時代(1336〜92)にあって、山岳の寺院を軍事施設に使ったとしても、城としての普請工事はしていなかったのではないかと言われている。
 
 文献上に登場するのは、中道子山城の城主は孝橋(たかはし)繁廣。以下繁景・景頼・秀光・秀時・時尚・尚秀と続いた。「中道子城 印南郡志方ノ庄岡村 城主ハ赤松新五郎繁廣築キ給フ也、父ハ刑部小輔則繁と号ス」(播陽古城記)とあり「赤松播備作城記」「播磨鑑」にも同様の記述がある。
 城主の孝橋繁廣は赤松則祐の孫満政の三男満直で、則繁の養子に入りその跡を継ぎ孝橋繁廣に改めている。
 嘉吉の乱のあと、一旦は中道子山城は失われ、応仁・文明の乱で、赤松政則が赤松家を再興したが、そのとき従軍したのが孝橋繁廣であり、中道子山城に戻ったとされる。
 その後、赤松の重臣であった浦上の台頭、尼子氏の侵攻、摂津の三次長慶(ながよし)と城主代々にわたって争いが東播周辺で繰り広げられ、羽柴秀吉によって制圧されるまで続いた。
 ・参考 「日本城郭大系」・「ひょうごの城紀行」他

▼赤松氏系図(抜粋)



◆赤松氏則(氏繁)のこと 
 
 氏則(繁)は赤松則村(円心)の四男で、所領は播磨加古郡・印南郡・明石郡他があった。南北朝の時代には父兄に反して終始南朝(宮方)についていた。その後、元中(至徳)3年(1386)に摂津中嶋で反乱を起こし、足利義満の命により実兄の則祐と、従兄弟の光範(摂津守護)の追討を受け、播磨加東郡の清水寺で一族郎党自害し果てた。
 氏則は中道子山城の西にある天神山城(志方町西飯坂)を築いたが、氏則死後は赤松家臣の櫛橋(くしはし)氏が城を守り、その後水の確保が難しいことから、志方城(志方町)に移ったという。
 ちなみに安楽寺は赤松氏の没落後志方城の櫛橋氏によって浄土宗寺院として再建されたと伝えられている。
 
▼天神山城(中道子山城の西)
 
 

◆赤松(孝橋)則繁のこと

 善坊山城主(加西市)則繁は、赤松満祐とはかり、将軍足利義教を殺害した(嘉吉の乱)。赤松居城城山城(たつの市)で一族は自刃し、赤松は没落した。
 
▼縄張図(案内板の図を着色・加筆)



 
アクセス

                             
 
▼中道山城周辺マップ                



▼昭和36年(1961)の航空写真(国土交通省)



 
 志方東小学校から南を進み安楽寺の近くのバス停城山前に案内板があり、山麓に向かって少し進むと、右手に駐車場がある。ここから、舗装された道があるが通常車の乗り入れができない。ここから徒歩で歩くことになる。
 


▼バス停「城山前」近くの案内板           


▼登山入口(舗装道路の入口)




▼少し歩くと関西電力の反射板が見える
 
 10分ほど歩くと、左斜面に毘沙門岩があり、ここからが城山旧道で0.6km、道路で1kmの表示がある。塗装道路を通れば、距離は長くなるが歩きやすい。今回は道路を歩くことにした。
 


▼巨大な毘沙門岩  

                  
▼毘沙門岩横が旧登山道入口  
 


▼旧道 ここから0.6km、途中からクサリ場コースもある

 
 塗装道路は南側の景色が所々から望める。道路の最終地点からは、ややきつい階段を登ることになる。
 

▼塗装道路の終点                  




▼ここから階段がつづく        


▼登山道(遊歩道)からの景色           


▼登山道の終わり 

 


 登山道が終わると、いよいよ城域に入り、正面には大手門跡、右上には、大きく切岸された曲輪が出迎えてくれる。その先に石垣が見える。最初の櫓門(やぐらもん)のあった櫓台だ。
  


▼大手門跡                    


▼最初の大きな曲輪 二の丸                    
 


▼道が上につづく                 



▼二の丸 (反射板がある)     
 
                       
▼櫓門跡                                                



▼櫓台の石垣

                        

 
  さらに登っていくと大きな曲輪(城山公園)の下を抜け、奥まで進むともう一つの櫓門跡がある。
 


▼左に入れば城山公園                 



▼もう一つの櫓門跡
  


 
 櫓門を抜けると、太師堂があり、その左に空堀がある。右の城門跡の石階段を進む。左横には、2m近くの土塁に囲まれた窪状の曲輪跡がある。米倉跡である。なぜ米倉なのかといえば、ここで、焼米が見つかったというのである。
 



▼太師堂の横の空堀                 



▼城門跡 石階段がある



▼高い土塁に覆われた米倉跡                            



▼本丸虎口


 
 このとなりの土塁の間の先がこの城の最頂部。もっとも広い曲輪を有する本丸だ。東西に約50m、南北30mの広さをもつ。北側には風よけであろうが周囲に40cm〜50cmの土塁が巡らされている。本丸の東から南のパノラマ状にひろがる展望がすばらしく、加古川の北部旧印南郡が見渡せる。山間部に水を満々とたたえた権現ダムや南の山並みの先に播磨灘が太陽の光に反射してキラキラと輝いているのがよく見える。本丸周辺には多くの桜が植えられており、春の桜の時期は大勢の人が花見にやってくるのだろう。
 
▼本丸(虎口から東方面)

 


▼本丸から東・南方面のパノラマ

 
 
 
 
太師堂がある裏手に降りると、井戸跡がある。周りはフェンスで囲まれていて覗くことはできないが、この井戸は今も水を湛えているという。
 


お堂の裏の曲輪に掘られた井戸跡 井戸は今も水をたたえている
 
      


城山公園の周囲と三の丸に向かう周辺には、四国88箇所巡りに見立て霊場として石像が数多く並べられている。
 
▼城山公園                    



▼城山公園の次の曲輪
 
 
 三の丸の北側に石垣が組まれた城門(搦手門)跡がある。その先に堀切が2つある。最初の堀切は天然の岩や傾斜をうまく利用した大きなもので、その先にもあり2つの堀切で西尾根筋からの侵入を塞いでいる。
 
 ▼城門(搦手門)跡                



▼東側の堀切

 
 一通り城域をぐるりと歩き、元の大手門跡まで帰り、大手門跡の南東部の平坦部にはパラグライダーの発着場があった。西方面が一望できる見晴らしのよい崖上にある。おそらくこの辺に見張り台があったのだろう。
 
 帰りのコースは大手門より、旧登山道と書かれた大手道を下っていった。途中、右手に2つ並びの大岩があった。その近くに小毘沙門岩の案内板があったのでコースを外れ覗いてみる。急斜面にロープや鎖が用意され小毘沙門岩にたどり着くことができた。
 
▼小毘沙門岩の表示                  


▼小毘沙門岩

 


 そうして元に戻り、舗装道に合流した。この舗装道路に旧道が切られてしまっているが、この舗装道の南に旧道がある。この道は、中才公会堂に続く。


 
 
▼旧道が舗装道で分断                



▼旧登山口

 

雑 感
 
 はじめて東播磨の加古川市志方町にやってきて、この城に出合った。城の構造や展望のよさは、東播磨の中世を代表するすばらしい城跡だという印象をもった。代々の城主は赤松再興の後尼子との抗争、赤松家臣浦上の台頭、摂津の実力者三次との抗争が繰り広げられ、秀吉の制圧まで続いている。城の遺跡に焼け跡が残っており、それは浦上との抗争によるものではないかと言われている。
 古代寺院の中道寺以外にも円満寺という寺があったが、廃寺となったという。安楽寺の近くの道沿いに大きな五輪塔や地蔵、いくつかの五輪が祀られている一角があり、城の興亡に何らかの関係があったのではないかと想像を膨らました。
 赤松惣領家の権威が失われていく中で東播磨で惣領家を支え消え去った孝橋氏・櫛橋氏の足跡が赤松東播磨周辺でつかめたのが収穫であった。
 

▼安楽寺                                                


▼安楽寺の近くの五輪塔・地蔵  



◆城郭一覧アドレス


摂津 滝山城跡 

2020-04-04 06:49:53 | 城跡巡り
【閲覧数】5,106(2013.1.10~2019.10.31)
 
 


▼ 城山の先端部  山陽新幹線の新神戸駅の裏山 




▼位置図  
 




摂津 滝山城跡のこと  神戸市中央区葺合町

 
  滝山城は別名「生田布引の城」とも呼ばれ、山陽新幹線の新神戸駅の裏山、布引の滝の西に位置する標高316.5mの城山と呼ばれている山頂にある。多くの曲輪跡があり、堀切跡・土塁跡等が残っている。西に多々部(たたべ)城、東方に摩耶山城の赤松の諸城跡がある。
 
   この城は赤松則村(円心)が、鎌倉幕府の倒幕に京都の※六波羅探題へ攻め入るために築いたもので、今の姿に大きく改修したのは、戦国時代摂津の松永久秀(弾正)であった。
  六波羅(探題):朝廷の監視、裁判、京都周辺の治安維持を司る幕府の重要機関
 



 ▼赤松則村(円心)像


 
 
 元弘3年(1333)鎌倉幕府の打倒を目論む後醍醐天皇の皇子護良親王(もりよししんのう)通称大塔宮(おおとうのみや)が挙兵を促す令旨(りょうじ)を発行し、それに応えた赤松則村が、苔縄城(上郡町)に挙兵し、摩耶山城(神戸市)に進行し、千早城(河内)に立てこもる楠木正成と連携しながら、京都の北条率いる六波羅と対峙した。「正慶乱離志」
  倒幕軍は、摩耶合戦で六波羅勢に勝利し、京都七条まで攻め入ったが、撃退され、赤松勢は滝山城に立てこもり再起をはかったという。「太平記」
 
  同年、鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇の建武の新政が行われ、論功行賞で則村は播磨守護職が与えられ、滝山城と多々部城に則村の長男範資(のりすけ)とその子光範(みつのり)が城主となった。しかし、則村の播磨守護はすぐに解任され、新田義貞に移った。西摂も楠木正成が領することになった。

 足利尊氏が後醍醐天皇に対立し、離反すると、則村は足利氏につき、山陽に向かう幕府追討軍の新田義貞を、播磨の感状山城(相生市)、白旗城(上郡町)で足止めさせ、九州に逃れていた尊氏は、再挙東上し京都を制圧することができた。
 
 そうして足利尊氏による室町幕府が誕生し、則村は侍所所司に任じられる四職(ししき)家の一つになり、播磨守護に返り咲き、長男範資は摂津守護に任ぜられ滝山城も再び赤松範資親子の手に戻ったのである。
 



▼室町幕府を開いた足利尊氏
 


 
  戦国時代の16世紀の半ば阿波三次長慶(ながよし)のとき家臣松永久秀が、この城を中心に西摂支配の拠点とした。しかし、長慶死後、三次三人衆と呼ばれた三次長逸(ながゆき)、三次政康、石成友通(いわなりともみち)一門衆との勢力争いの結果、永禄9年(1566)三次方が播磨・淡路の加勢を得て落城させ、篠原長房が入城した。
 
  その篠原長房は、織田信長の摂津侵攻により退城し、天正元年(1573)荒木村重が摂津守護となり花隈城(神戸市)に荒木志摩守通称元清を配し、滝川城はその付城となったようである。信長による花隈城の落城とともに、滝川城は役目を終え、兵庫城(神戸市兵庫区)の築城のおり、滝山城の石材を転用したと伝えられている。 参考:日本城郭大系、他
 


 

アクセス
 


▼滝山城周辺マップ                    




▼滝山城図 案内板より



 
 新神戸駅の右詰を抜けると、布引の滝のハイキングコースがあり、50mほど歩くと、左山麓に滝山城址石標がある。
 

 



 

▼滝山城跡の石標                   ▼石段を登る
 
 

 
 

 山の尾根筋を歩き始めると、所々に曲輪の跡があり、大きくえぐられた堀底の道を歩く。この道が大手道と言われている。左は北野谷筋があり急な斜面となっている。
 


▼大手道                      


▼所々に曲輪跡がある
  


 
▼大きくえぐられた堀底の道を進む         
 

 



 途中ロープウェイの支柱があり、この場所からモノレールの上り下りや、神戸の市街地と海が展望できる。ここ以外は木々が生い茂り展望はあまり望めない。
 


 
 
 


 最初の東の曲輪群の裾を迂回する道(おそらくこの道は遊歩道ではないか)を進むと、石垣に使われていたと思われる石が山の斜面に散在している。
 


▼東の曲輪群を迂回                 



▼石垣が散在
 


 
 東曲輪群と次の曲輪群の間の竪堀の間の薄暗い道に入ると、城の説明板がある。
 
     
            
▼説明板                     



▼タコの足のような根をはる巨樹  
 
 


 いよいよ本丸もまじかだ。大きく根を張った木々の間を登っていくと、二の丸、本丸へと続く。
 



▼この上が二の丸                



▼二の丸にある東屋

 


 本丸にある櫓台の上には、「史蹟瀧山城阯」の石碑が建てられている。


 
▼二の丸から本丸へ                




▼本丸の一段高くなった櫓台に石碑
 

 


 こまで小1時間要した。ここから、多々部城のあった大龍寺に立ち寄り、布引貯水池、布引の滝へのコースを楽しんだ。
 
 


雑 感
 
  
  昨年12月、赤松円心・則祐の特別展(姫路 県立歴史博物館)の最終日に訪れた。想像以上の数の展示があり十分楽しむことができた。その中で特に興味深かったのが親王の令旨だった。 
 
  この書状で諸将が倒幕に動いた。うまくいけば新政権の座と所領を得ることができるが、失敗すれば朝敵・賊軍として消されてしまう。挙兵は一族の存亡をかけた命懸けの賭(かけ)だったのだろう。当時赤松円心・則村や楠木正成は、悪党と呼ばれた豪族であったが、その令旨に応え、大きな賭に打って出たものと私は思っていた。 

  しかし、その挙兵にかかわった背景が最近の研究で明らかにされてきた。それによると赤松村のある佐用荘(さよのしょう)が六波羅探題の料所であり、六波羅の被官が佐用荘の一部を宛てがわれて、赤松一族がこの代官としての関わりをもっていたこと。そして則祐が倒幕の中心者護良親王の側近であり、固い信頼関係があったことがいわれている。(特別展「赤松円心・則祐」 県立歴史博物館発行)
 
 兵の数で圧倒的に不利であったにもかかわらず、即刻挙兵を進めたのは、自らが親王の元にいち早く馳せ参ずる行動が諸侯の倒幕を決起させ、敵を知る円心に勝算ありの判断があったからこそではないかと考えてみた。
 
 
 
周辺の名勝地を歩く
 
 
▼大龍寺石段                      


▼大龍寺仁王門  
 
 

 
▼名爆 布引の滝



◆城郭一覧アドレス