郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

美作 矢筈城跡 ~美作最大の山城~

2020-04-10 13:59:10 | 城跡巡り
【閲覧数】2,933(2016. 1.21~2019.10.31)                                  
                 



 

 
▲矢筈城跡 上部のV字の右側に本丸がある。      平成18年3月岡山県指定史跡
 


 
▲北西からの鳥瞰  (by google)
 


 
  ▲説明板より
 


美作 矢筈(やはず)城跡  美作最大級の山城をゆく

      
 この山城との出会いは、津山市北部のひなびた阿波(あば)温泉へのドライブの途中、一瞬右手の山すそに矢筈城と書かれた看板を見たのがきっかけだった。はっきり読めなかった城名であったが、後で調べてみると美作随一の城跡であることがわかり、早速登城することにした。

 美作津山の中世の城といえば岩屋城跡以来4年ぶりだ。矢筈城跡は中国自動車道津山インターから北に約1時間余り、津山から吉井川支流加茂川を遡上した山間部にある。高さといい規模といい見るからに登城には気合の入る山城だった。
 
 

矢筈城跡のこと   苫田郡(とまたぐん)加茂町山下(さんげ)(津山市加茂町)
 

 別名高山(たかやま)城、草刈城ともいう。城の名は、本丸のある大筈に並んだ小筈がVの字になり矢筈(矢の末端の弦をかける凹んだ部分)に似ていることからこの名がついた。矢筈山(標高756m、比高426m)の頂上に本丸を置き、東西1600m、南北500mの規模を誇る連郭式の美作最大の山城である。東郭群に「本丸」「二の丸」、「三の丸」と北に「馬場」や「土蔵郭」を置き、西郭群には三重堀切により守られ、石垣を多用した城主居館跡、成興寺丸、客殿と呼ばれる多くの曲輪跡が配されている。
 
  城主は草刈衡継(ひらつぐ)。草刈氏の出自は伝承では陸奥斯波郡草刈郷といわれ、南北朝期の暦応年間(1338-42)足利尊氏から因幡国智頭郡を与えられ、因幡と美作の二国にまたがる勢力を有していた。草刈衡継が天文元年(1532)から2年を要し矢筈城を築城した。北西麓の大ヶ原には「内構」と呼ばれる草刈氏の居館跡が残る。
 


 
▲保存会パンフより
 


戦国時代の草刈氏の動き
 
  初代城主草刈衝継は、矢筈城を築き、因幡智頭の淀山城※から移った。この城を本拠に出雲の尼子氏の南下に対抗し、美作に進出してきた備前の浦上村宗・宗景父子を撃退し、美作北東部の苫田郡北部を手中にしている。一方毛利と尼子の抗争が繰り返されるなか、衝継の後を継いだ景継は毛利元就に従って尼子攻めに加わっていた。

 ところが天正2年(1574)織田の中国平定の動きに密かに接近したため、小早川隆景の知るところとなりその責めを負い景継は自刃し(※)、弟の重継が後を継いだ。重継は毛利に組し、以後秀吉の再三の説得を拒否した。

  天正7年(1579)に宇喜多直家が毛利から織田に鞍替えすると、直家は草刈氏の矢筈城攻略のため美作・竹山城主新免宗貫を差し向けたが、草刈氏はこれを退けている。その後天正9年(1581)にも秀吉の攻撃を受けるも撃退している。

  しかし、天正10年(1582)備中高松城の戦いで、毛利と織田の和議により、美作の毛利属城は秀吉(宇喜多)に明け渡すことになる。しかし美作の国人層は承服せず宇喜多と交戦を繰り返すも、翌年には重継は矢筈城を開城し、一族は離散した。



 ※草刈景継の毛利から織田への寝返りの発覚
 天正3年(1575)織田信長についた尼子勝・山中鹿助の侵入を阻止しようとした毛利輝元は、智頭に番所を設け、人改めをしていたところに淀山城(智頭)の城主草刈景継の使者がこの番所で捕まり、毛利家臣景継が信長に味方していることが発覚した。それにより、景継は切腹となり、弟の重継が家督を継いだとある。『因幡誌』




 竹山城主新免宗貫との交戦

  天正7年6月草刈與次郎景晴(草刈景継の弟)が佐渕城(西粟倉村)を拠点に、小原竹山城主新免宗貫と戦い筏津場ケ原にて戦い戦死し、佐渕城趾山麓に一族後裔によって墓が建立されている。
 

 参考:『日本城郭大系』、『武家家伝 草刈氏』、『矢筈城保存会パンフ』他
 


 
 アクセス
 
矢筈城周辺案内図・主要部   保存会パンフより

 

 


 
千磐(ちいわ)神社の前に駐車できる。城の説明版があり、その横が登山口になる。案内板が小まめに誘導してくれるので、まず迷うことはない。
 

 
▲神社拝殿横の杖や案内パン                     ▲手書きのメッセージとパンフ
                      


  拝殿の横に手書きのメッセージにパンフレットが用意されている。おもてなしに感謝。さっそくパンフを片手に出発した。 


 
 

   

 歩き始めて10分もかからないうちに、堀切があった。ここからが城域というサインだ。右に続く尾根筋は下山のときに見たが、小さな曲輪跡が数段続いていた。西山麓の見張りのようだ。




  
   
 

 きれいに枝打ちされた杉林の間のやや急な尾根道をひたすら歩く。しばらく登ると左下の見晴しにしばし立ち止まった。

 

 
 
 

500m歩いた場所に大岩まで450m、本丸まで1900mとある。総距離2400mの行軍だ。その後、右に左につづら折の道を進む。
 

 
 


大岩に至る。この上を上りきったところにいよいよ曲輪跡が始まる。
 


  
 

西郭の最上部に櫓台跡があり、さらに上っていくと広い曲輪跡があり、城下が見える。
 


  
 

 
北側に段丘状の曲輪が延び、成興寺跡がある。後からわかったことだが、この下には内構という居館跡につづく道が示してあった。
 

 
 

次に進むと、堀切がありその上部には狼煙場跡がある。ここから随所に石垣や石積みが見られる。
 

 



腰郭の詰めには石垣段があり、その下は崖状になっているが、登山道として階段が敷かれている。

 
 


 
次に西郭の主郭があり、その先には三重の堀切が侵入を阻止している。
 


  
 
 
 
▲三の丸                              ▲河井、山下に続く道
             

 
▲二の丸 
 


 ここから本丸までさらに300mもつづく。三の丸、二の丸、そして最後の高台に登りきると矢筈山の頂上、本丸だ。標高756m今まで登ったなかで最も高い山城だ。疲れも忘れてぐるりを見渡す。
  二の丸から、北西にかけて、馬場跡などの曲輪跡が延びている。
 


▲本丸



 

 
   
                        
  
▲左:阿波方面、右:物見峠を越えると因幡智頭町に至る 
 
 

            
▲阿波温泉周辺 阿波温泉のすべすべの湯は格別
 


 
▲伝 草刈景継の墓碑(山下) 対面に矢筈山が見える
 
 

雑 感
 
 一度で、東西の二つの城を見た感覚であった。山頂本丸のある東郭群と西郭群の二つの郭群が両翼に張ったスケールの大きな山城だった。 標高756m、比高426m。比高400mを超えてなおフル装備の山城は全国でも屈指ではないかと思う。眼下の因美国境の街道を押さえ、山頂から山波の向こうのもう一つの旧領因幡智頭を意識していたのだろう。
 
 今は城跡を縦断できる快適な登山道が整備されているが、『日本城郭全集』昭和42年発行には、
 『この山城頂上への道はなく、樹木がうっそうと茂る中に巨岩怪石がそそり立ち、昔から狩人以外は登れない山であった。地元の猟師の話によると頂上の本丸までいくと、不思議に猟犬がいなくなり、翌日に探しに行ってみると、岩の間に小さく隠れていた。「犬戻り」という迷い道が多かった。』と書かれている。

 峠坂の厳しさや川の流れの速さを表現するのに、「駒帰」とか「鮎返」はあるが、「犬戻り」というは初めてだ。猟犬ですら恐れ迷う山城であったことは、この山城がいかに難攻不落の城であったか端的に言い表わしている。険しい自然地形のうえに堀切や竪堀、石垣等などが巧妙に敷かれていたからだろう。


 
▲内構の石垣                     ▲痛々しい矢筈山
 

 内構という屋敷跡の背後に尾根筋が続く、おそらく武将たちが合戦のときその上を行き来していたのだろう。しかし、時代は変わり、難攻不落の草刈氏の要塞や屋敷の一部が、砕石工場によってその峰の半分がえぐり取られ見るからに痛々しい。
 二の丸から山下(さんげ)・河井に続く道は時間の都合上歩いていないのが心残りで、また機会があれば登りたいと思っている。



【関連】
竹山城(大原町)


◆城郭一覧アドレス

美作 岩屋城跡

2020-04-10 09:06:02 | 城跡巡り
【閲覧数】3,940(2012.2.23~2019.10.31)   

                               
 



▲南東部の谷筋から見た岩屋山
 


 岩屋城跡は津山市の西端に位置する。この地は古くは美作国久米郡七郷のひとつで、中世には久米荘(荘園)、織豊期には久米庄村(美作国久米北条郡)と呼ばれていた。古代からの交通路であった。
 

 
美作の中世城郭分布図
 

 
 
▼岩屋城跡略図
 
 
 

岩屋城跡 ~戦国6大名家が城主となる美作の山城~
 
                                                 岡山県久米郡久米町(現津山市中北上)



   美作国の覇権で中世の名のある武将たちが合いまみれた戦いが、この岩屋城で繰り広げられました。岩屋城は、東は津山盆地、西は久世・落合・勝山を見渡せる山頂にあり、南の山ろくは、出雲往還の主要街道で、津山西方の押さえの地にありました。
 
    嘉吉の乱(1441)で、赤松満祐の討伐に手柄をたてた幕府軍の山名教清(のりきよ)が美作の守護になり、岩屋山(482m)の山頂に岩屋城を築城し、叔父の山名忠政を守護代として津山鶴山(かくざん)に築城させ東の守りとしました。


 


  応仁の乱(1467~77)が起きると、西軍の総大将山名持豊(宗全)に加勢のため山名教清の子山名政清が京都へ出兵中に、東軍の赤松政則が岩屋城を落とし、その後、文明5年(1477)赤松政則は播磨・備前・美作の守護職に任じられ、赤松氏の旧領の回復に成功しました。岩屋城主に大河原治久を置きました。
 




  政則の跡を継いだ赤松義村は家臣であった浦上村宗と対立し、浦上村宗は備前三石城に戻り赤松氏に反旗を翻します。赤松の攻撃を受けたが、浦上氏は金川城主松田元陸・美作守護代中村則久と通じ、これを撃退し、永正17(1520)には岩屋城を攻略し、中村則久を城主としました。これに対し赤松義村は、岩屋城の奪回のため、小寺則職、大河原治久により包囲するも、村宗自ら駆けつけたため、陣を引きあげました。


 


       
  その後、尼子氏・宇喜多・毛利氏の支配を経て、天正10年(1582)に備中高松城の戦いで 毛利・羽柴の和議が成立し、美作は宇喜多領となりました。
天正18年(1590)に野火により焼失・廃城となりました。
  
   


 ※参考:「美作岩屋城跡」パンフより
 


アクセス

 
  中国自動車道院庄インターで降り、国道181号線で西方面に進み、「道の駅久米の里」をぬけると、中北上に「岩屋城跡」の看板があります。
 


▼岩屋城跡へのアクセスマップ          
 

 
▼登山案内の看板 


 
そこから、岩屋川の谷合い入っていくと、登山口の駐車場があります。ここに登山ルートの案内板と城の説明板があります。
 

▼向こうに見えるのが岩屋山            



▼広い駐車場と円形型のトイレ
 
 

▼岩屋城の説明                       


 
 ここから、案内に従って、登っていきます。最初に用意されたのが、長い階段。階段途中に右側には慈悲門寺下砦跡と表示があり、砦跡がいくつか見られます。
 


▼登山入口階段                       


▼長い階段が続く


  
 
登りきると、広い慈悲門寺跡があり、中ほどに寺で使われていた瓦や焼物の破片が散らばっています。
 


▼慈悲門寺跡                        


▼広い寺院跡
  


 
 断崖状の道を進むと、山王宮跡の矢印があり、右手に降りていくと、その向こうには岩壁の窪みに祠が見えます。
 


▼山王宮跡の説明板                


▼中央 岩の祠
  


 
  さらに上を進むと、数日前に降った雪が残っています。険しい谷あいに大きな岩が道に横たわる。道は登りやすく手入れされていますが、ここは、大手門のあった場所のようです。さらに進むと水門跡があります。



▼日のあたらない斜面には雪が残る             




▼大手門前 大岩が待ち受けている
 


▼大手門跡                        



▼水門跡
  
 


水門跡の上には、山王宮拝殿跡があります。 建物の後ろに竜神池があり、その上に井戸もあり、水源は強く、山城の籠城に最適であったことがわかります。
 


▼山王宮拝殿跡
 


 
ここから、右に進めば三の丸、左が本丸となり、右に進みました。右斜面には矢竹が生い茂っています。この竹で矢を作っていたのでしょう。
 



▼三の丸へ                          



▼矢竹の群集  


 
三の丸には2段の曲輪があり、下の段より展望ができます。東方面の見張りと防御の役割をもっていたのでしょう。
 


▼三の丸                             



▼三の丸からの展望
  
 


また元に戻り、本丸に続く二の丸に向かいました。右手には大堀切(深さ15m)があり、北方向からの攻撃を遮断しています。
 


▼広い斜面を進む                    




▼右手の断崖は堀切
  


 
尾根上に伸びる数段の二の丸。二の丸の東には、雪を頂いた山々が美しい。
 


▼二ノ丸                          




▼二ノ丸から北東の山々(那岐山ほか)
  
 


ここから、本丸まではもう少し。最後の階段を登りきると、疲れも忘れる光景が待ち構えていました。
 


▼二ノ丸から本丸へ                     




▼本丸手前
  
 


広い本丸。桜の木が多く植樹されているので、春は桜の花が楽しめるでしょう。西側の足元は断崖になって「落し雪隠(せっちん)」と呼ばれています。
 


▼広い本丸                                   
  



 


▼本丸から西方向 星山の望遠                         




▼本丸下の石垣 
 
 



本丸の東下には幅20m・長さ100mの山頂としては大きな馬場跡があります。その先には鳥居があり、ここからの西の展望も清々しい。



  

   
 



馬場跡から南にも曲輪、堀切があり、さらにその先には小分城跡・石橋上砦跡・椿ヶ峪砦跡があります。
 


雑  感
 
  美作国の出雲往来の地にあった美作岩屋城は、戦国大名の争奪の的となっています。山名氏が築城後150年間に中国地方に名を馳せた山名氏を含めた6人の守護(代)大名が城主および領主となっているのは、それだけこの城は、出雲往還の立地と城機能の備わった山城であって、特に東西の進出の拠点として、はずせなかったのでしょう。 
 歴代の岩屋城主は、それぞれの時代の迫りくる敵に対応した防御の手立てを加えてゆき、最終の堅城が現在に残されたのにちがいない。その意味では、山名氏原作、6城主合作の城とも言えるのじゃないかなと思います。



◆城郭一覧アドレス