【閲覧数】2,933(2016. 1.21~2019.10.31)
▲矢筈城跡 上部のV字の右側に本丸がある。 平成18年3月岡山県指定史跡
▲北西からの鳥瞰 (by google)
▲説明板より
美作 矢筈(やはず)城跡 美作最大級の山城をゆく
この山城との出会いは、津山市北部のひなびた阿波(あば)温泉へのドライブの途中、一瞬右手の山すそに矢筈城と書かれた看板を見たのがきっかけだった。はっきり読めなかった城名であったが、後で調べてみると美作随一の城跡であることがわかり、早速登城することにした。
美作津山の中世の城といえば岩屋城跡以来4年ぶりだ。矢筈城跡は中国自動車道津山インターから北に約1時間余り、津山から吉井川支流加茂川を遡上した山間部にある。高さといい規模といい見るからに登城には気合の入る山城だった。
矢筈城跡のこと 苫田郡(とまたぐん)加茂町山下(さんげ)(津山市加茂町)
別名高山(たかやま)城、草刈城ともいう。城の名は、本丸のある大筈に並んだ小筈がVの字になり矢筈(矢の末端の弦をかける凹んだ部分)に似ていることからこの名がついた。矢筈山(標高756m、比高426m)の頂上に本丸を置き、東西1600m、南北500mの規模を誇る連郭式の美作最大の山城である。東郭群に「本丸」「二の丸」、「三の丸」と北に「馬場」や「土蔵郭」を置き、西郭群には三重堀切により守られ、石垣を多用した城主居館跡、成興寺丸、客殿と呼ばれる多くの曲輪跡が配されている。
城主は草刈衡継(ひらつぐ)。草刈氏の出自は伝承では陸奥斯波郡草刈郷といわれ、南北朝期の暦応年間(1338-42)足利尊氏から因幡国智頭郡を与えられ、因幡と美作の二国にまたがる勢力を有していた。草刈衡継が天文元年(1532)から2年を要し矢筈城を築城した。北西麓の大ヶ原には「内構」と呼ばれる草刈氏の居館跡が残る。
▲保存会パンフより
戦国時代の草刈氏の動き
初代城主草刈衝継は、矢筈城を築き、因幡智頭の淀山城※から移った。この城を本拠に出雲の尼子氏の南下に対抗し、美作に進出してきた備前の浦上村宗・宗景父子を撃退し、美作北東部の苫田郡北部を手中にしている。一方毛利と尼子の抗争が繰り返されるなか、衝継の後を継いだ景継は毛利元就に従って尼子攻めに加わっていた。
ところが天正2年(1574)織田の中国平定の動きに密かに接近したため、小早川隆景の知るところとなりその責めを負い景継は自刃し(※)、弟の重継が後を継いだ。重継は毛利に組し、以後秀吉の再三の説得を拒否した。
天正7年(1579)に宇喜多直家が毛利から織田に鞍替えすると、直家は草刈氏の矢筈城攻略のため美作・竹山城主新免宗貫を差し向けたが、草刈氏はこれを退けている。その後天正9年(1581)にも秀吉の攻撃を受けるも撃退している。
しかし、天正10年(1582)備中高松城の戦いで、毛利と織田の和議により、美作の毛利属城は秀吉(宇喜多)に明け渡すことになる。しかし美作の国人層は承服せず宇喜多と交戦を繰り返すも、翌年には重継は矢筈城を開城し、一族は離散した。
※草刈景継の毛利から織田への寝返りの発覚
天正3年(1575)織田信長についた尼子勝・山中鹿助の侵入を阻止しようとした毛利輝元は、智頭に番所を設け、人改めをしていたところに淀山城(智頭)の城主草刈景継の使者がこの番所で捕まり、毛利家臣景継が信長に味方していることが発覚した。それにより、景継は切腹となり、弟の重継が家督を継いだとある。『因幡誌』
竹山城主新免宗貫との交戦
天正7年6月草刈與次郎景晴(草刈景継の弟)が佐渕城(西粟倉村)を拠点に、小原竹山城主新免宗貫と戦い筏津場ケ原にて戦い戦死し、佐渕城趾山麓に一族後裔によって墓が建立されている。
参考:『日本城郭大系』、『武家家伝 草刈氏』、『矢筈城保存会パンフ』他
アクセス
矢筈城周辺案内図・主要部 保存会パンフより
千磐(ちいわ)神社の前に駐車できる。城の説明版があり、その横が登山口になる。案内板が小まめに誘導してくれるので、まず迷うことはない。
▲神社拝殿横の杖や案内パン ▲手書きのメッセージとパンフ
拝殿の横に手書きのメッセージにパンフレットが用意されている。おもてなしに感謝。さっそくパンフを片手に出発した。
歩き始めて10分もかからないうちに、堀切があった。ここからが城域というサインだ。右に続く尾根筋は下山のときに見たが、小さな曲輪跡が数段続いていた。西山麓の見張りのようだ。
きれいに枝打ちされた杉林の間のやや急な尾根道をひたすら歩く。しばらく登ると左下の見晴しにしばし立ち止まった。
500m歩いた場所に大岩まで450m、本丸まで1900mとある。総距離2400mの行軍だ。その後、右に左につづら折の道を進む。
大岩に至る。この上を上りきったところにいよいよ曲輪跡が始まる。
西郭の最上部に櫓台跡があり、さらに上っていくと広い曲輪跡があり、城下が見える。
北側に段丘状の曲輪が延び、成興寺跡がある。後からわかったことだが、この下には内構という居館跡につづく道が示してあった。
次に進むと、堀切がありその上部には狼煙場跡がある。ここから随所に石垣や石積みが見られる。
腰郭の詰めには石垣段があり、その下は崖状になっているが、登山道として階段が敷かれている。
次に西郭の主郭があり、その先には三重の堀切が侵入を阻止している。
▲三の丸 ▲河井、山下に続く道
▲二の丸
ここから本丸までさらに300mもつづく。三の丸、二の丸、そして最後の高台に登りきると矢筈山の頂上、本丸だ。標高756m今まで登ったなかで最も高い山城だ。疲れも忘れてぐるりを見渡す。
二の丸から、北西にかけて、馬場跡などの曲輪跡が延びている。
▲本丸
▲左:阿波方面、右:物見峠を越えると因幡智頭町に至る
▲阿波温泉周辺 阿波温泉のすべすべの湯は格別
▲伝 草刈景継の墓碑(山下) 対面に矢筈山が見える
雑 感
一度で、東西の二つの城を見た感覚であった。山頂本丸のある東郭群と西郭群の二つの郭群が両翼に張ったスケールの大きな山城だった。 標高756m、比高426m。比高400mを超えてなおフル装備の山城は全国でも屈指ではないかと思う。眼下の因美国境の街道を押さえ、山頂から山波の向こうのもう一つの旧領因幡智頭を意識していたのだろう。
今は城跡を縦断できる快適な登山道が整備されているが、『日本城郭全集』昭和42年発行には、
『この山城頂上への道はなく、樹木がうっそうと茂る中に巨岩怪石がそそり立ち、昔から狩人以外は登れない山であった。地元の猟師の話によると頂上の本丸までいくと、不思議に猟犬がいなくなり、翌日に探しに行ってみると、岩の間に小さく隠れていた。「犬戻り」という迷い道が多かった。』と書かれている。
峠坂の厳しさや川の流れの速さを表現するのに、「駒帰」とか「鮎返」はあるが、「犬戻り」というは初めてだ。猟犬ですら恐れ迷う山城であったことは、この山城がいかに難攻不落の城であったか端的に言い表わしている。険しい自然地形のうえに堀切や竪堀、石垣等などが巧妙に敷かれていたからだろう。
▲内構の石垣 ▲痛々しい矢筈山
内構という屋敷跡の背後に尾根筋が続く、おそらく武将たちが合戦のときその上を行き来していたのだろう。しかし、時代は変わり、難攻不落の草刈氏の要塞や屋敷の一部が、砕石工場によってその峰の半分がえぐり取られ見るからに痛々しい。
二の丸から山下(さんげ)・河井に続く道は時間の都合上歩いていないのが心残りで、また機会があれば登りたいと思っている。
【関連】
竹山城(大原町)
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