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自由、幸福ということ(2021/10/1)

2021-10-02 21:34:36 | どん底に落ちたとき
自由、幸福ということ  松永安左エ門 全集第六巻 p381 より

 自由ということは人間の幸福ということだ。しからば人間の幸福とは何であるかというとはなはだ難しくなってくる。人間が金を沢山持っておるのが果たして幸福か。金を持ったことによって自由が失われているならば、これは非常な不幸である。金や衣食を豊富にもっていても、心の自由のない人は不幸な人間といわねばならない。一方、政治上や宗教上の偉人達を眺めてみるに、世間から迫害をうけ、あるときは獄につながれ、毎日の生活はひどい貧窮ぶりであり、ある人は死刑にすらなっている。このように信念や主義主張のために、世俗的には最大の不幸のように見られる事も果たしてこの偉人達にとっては不幸であったろうか。これは決して不幸ではないのである。この偉人達の苦悩によって社会を進歩せしめ、人心を救済している歴史的事実は、偉人達の幸福すなわち真の自由の獲得者であることを実証している。私の貧しい経験からいっても過去に貧乏し、事業に失敗して身代限りも何回かやりあるいは牢に入り、病気にもなったが、この時代を自ら不幸だったと考えていない。こういう打ち続く不幸も私にとっては一種の抵抗力を加えたものと考えている。

 自由を求めるための苦悩は一種の研磨剤だといいうる。肉体的に磨かれている間は苦しいものだが、その間に一歩一歩と自己の人生観をたかめ落ち着きが生じ、さらに人生への勇気が百倍して行ったことが、今日よく分かるのである。だからこれを不幸というよりは幸福といわねばならぬではないか。私はすばらしい金持ちでもなく大臣、高官にもならなかったが、今日の私は非常に幸福である。それは自由を持っている。すなわち心の自由が存在するからである。

(私の思い出深い挫折の54歳でのリストラ言い渡しから実際に去るまでの1年間、社内の元同僚たちの冷ややかな好奇の視線をあびながら「肉体的に磨かれているあいだは、苦しいものだか、その間に一歩一歩と自己の人生観を高め落ち着きが生じ、さらに人生への勇気が百倍した」の一節が、よく脳裏を横切った。振り返ると、気持の成長期で、幸せだったと実感する。3年前の春、心に浮かんだ俳句「金じゃない 心の自由 さくら道」 。
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