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史記 二人の布(2021/8/20)

2021-08-20 13:53:22 | どん底に落ちたとき
司馬遷 史記(平凡社 下巻 86ページ)

季布(きふ)・欒布(らんふ)列伝


季布は承諾した。そこで、ただちに季布の頭髪を剃り、首かせをはめて奴僕に見せかけ、粗末な毛織の衣服を着せ、広柳車(覆い付きの大車)の中にいれ、家僕数十人とこみにして、魯の朱家のもとに連れて行って売った。朱家は、内心、季布だと知りながら、買い入れて田地に置き、その子を戒めていった。「農事についてこの奴僕の言うとおりにし、必ずいっしょに食事しなさい」・・・高祖はただちに季布を赦した。当時、貴顕たちはみな、季布がよくおのれの剛毅を抑えて柔軟にふるまったことを賞賛し、朱家もこのことで名声が当世に聞こえた。・・・孝恵帝の時代に季布は中郎将(近衛兵をつかさどる官)となった。・・


・・・いま、彭王は既に死にました。わたくしも、生きているよりも死んだほうがましです。どうか、煮殺してください」
そこで、高祖(漢帝国の創始者)は欒布の罪を許して、都尉に任じた。・・・欒布は常々「困窮したときに、恥辱にたえて身を落とし、願望をおさえることができないようでは、一人前の人間ではない。富貴になったときに、しみったれて思いのままにふるまうことができないようでは、賢人ではない」・・・

大史公(司馬遷)曰く・・・
意気盛んな項羽のもとにあってさえ、季布は勇をもって楚で有名であり、身はしばしば敵軍をくつがえし、敵をやぶってはその旗を奪い取った。壮士というべきである。しかし、罪を問われる境遇に追い込まれると、人の奴僕になりさがっても死ななかった。なんと身を落としたことか。彼は必ずやおのれの才能に自負するところがあり、辱めをうけても恥と思わず、その才能の活用を念じて、まだ満足するところまでいかなかったからであろう。だからこそ、ついに漢の名将となったのだ。賢者はまことにその死をおもんずるものである。あの奴妾・が悲嘆にくれて自殺するのは、勇気があるからではない。いったん、生きるための計画がくずれると、それを立て直すことが出来ないからである。欒布が彭越に対して哭礼をおこない、煮殺しの刑に処せられる際、帰するがごとく平静であったのは、身を処するところを知っていて、死そのものを重しとしなかったからである。昔の烈士であっても、この二人以上のなにができただろうか。


(司馬遷が史記のなかで、ここまで、生き方を認める人物は、少ない。宮刑になったあとも、自殺せず、史記を書き続けた司馬遷その人の生き方と二重写しになる。落ちて、辱めを受けても、誇りと使命を忘れない。2200年前の中国の歴史家の生き方は今も、落ちこぼれの一人一人に勇気を与えてくれる。私も気を取り直した一人。takeda)

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