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孔子の弟子、顔回にみる尻つぼみ人生(2021/6/1)

2021-06-01 16:56:30 | 人生楽しく生きる
司馬遷 史記 平凡社訳本 中巻p189

顔回は魯の人である。字は子淵。孔子より三十歳の年少である。あるとき、顔淵が仁について問うと、孔子は答えた。「おのれの私欲にうちかって礼の道にたちかえれば、天下の人々はその仁徳に慕いよってくるだろう」また孔子は言う。「賢人だなあ、回は。たった ねりご(竹製または葦製の食器)に一杯の飯、瓢(ふくべ)に一杯の水で飢えをしのぎ、わびしい裏店住(うらだな)住まいをしている。普通の人ならとても落ちついて生活できないだろうに、回は道を楽しむ心をかえようともしない。私と話をするときには、はいはいと聞いているだけで愚か者のようだが、その家などで仲間と話し合っているのを聞けば、道理をわきまえていて仲間を啓発している。回は決して愚か者ではない。登用されれば出仕して堂々と道をおこない、登用されなければしりぞいて静かに道をまもる。―これができるのは、回よ、私とお前ぐらいだな」
 回は、二十九歳ですっかり白髪になり、若死にした。孔子は大声をあげて泣き、悲しんで言った。「回が弟子入りしてからというもの、他の門人たちもますますわたしに親しむようになったのに」

 松永安左エ門著作集 第五巻 p156
「論語と茶の湯」
  子の曰く、賢なる哉回や 盛り切りの飯に一杯の酒で横町の裏店住まい、ほかの人なら貧乏の苦労にかまけてしまうところを、顔回は相変わらず道を楽しんで勉強している。まことに賢なる哉回やと孔子さんはおっしゃった。
 耳庵(松永安左エ門)思う、知足安分という辞宜以上のものを顔回はもっていた。むしろ足らざるところを楽しんだところに侘道があるのではなかろうか。

(電力の鬼といわれた実業家で、茶道にも造詣の深い松永安左エ門は、その著述で「老いて病んで貧乏したとする。これも止むを得ない自然だ。悔やむ代わりにむしろ楽しむ気になれぬものだろうか。日々是好日、尻つぼみも爽快なる男子の最後の飾りと思うのは無理か」と述べている。この二つを合わせ読むと、意味合いが分かってくるように思う。私も72歳、年を取り、体のあちこちの部品が時々、ポツリと抜け落ちていく感覚、最近は目の部品、笑える。)
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