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「高桑氏族」 覚書(123)

2013-09-29 11:43:07 | 歴史

加賀騒動(5)

高桑政右衛門の敵討(かたきうち)

巷説・加賀騒動本は、その最終章の表題を、「忠臣高桑、土佐守を襲撃。高桑の死」として、「加賀騒動」の顛末を、締め括っている。

時は、宝暦8年(1758年)であった。その年の12月15日、大雪の降り敷くる中を、江戸藩邸から、国許に帰っていた前田土佐守は登城した。

その途上、頭巾を被(かぶ)った一人の侍が、物陰から突然現れ、土佐守の駕籠を目掛けて駆け寄った。駕籠脇の家来達が、「これは!」と驚くその隙に、抜く手も見せず、氷の様な白刃を一閃、駕籠の中に突き入れた。

丁度その時、偶々(たまたま)、土佐守は、俯(うつむ)いていたので、肩衣(かたぎぬ、室町末以降、武家の衣服)の端を刀が突き刺さっただけであった。

前田土佐は、刀を取り、駕籠の戸を蹴破り、外へ飛び出す。家来達は抜刀して、応戦しようとしたが、深い積雪に足を取られ、動きが定まらない。一方曲者は、足場の悪さを予期した身支度で、家来達に手傷を負わせ、難なくその場から逃去した。

土佐守は、早速藩の「盗賊改(あらため)方」の土方(ひじかた)孫三郎を呼び出し、“大槻残党の仕業に違いない。探索して召し捕れい”と命じた。

孫三郎は、直ちに手配して、厳しく探索した結果、曲者は高桑政右衛門という又者(またもの、陪臣、藩主の直臣でなく、藩主の家臣の家来)で、大槻伝蔵の家老を務めていた人物である事が判明した。

高桑は、主人の大槻が逮捕される直前に、姿を晦(くら)まし、その後、遥として行方が判らないでいた。今に至って、主人の仇を報じようと決意し、主人の有りもしない罪を捏造し、流刑小屋に送って、死に至らしめた、許し難い前田土佐を襲ったのだ。

(大雪での襲撃、「桜田門外の変」に似ている。共に雪で、家来達が応戦にまごついている。又主君の仇を晴らすのは、赤穂浪士の忠義心に似ている。因みに大槻は、忠臣蔵・討入りの翌年・元禄16年に生まれている。)

巷説・加賀騒動本は元々、大槻を悪玉、前田土佐を善玉とする構成である。処が、大槻一味の最重要人物の高桑に限っては、討ち漏らしたとはいえ、「忠臣」として、高く称揚している。

その挙句に、古代王朝の「晋(しん、265~420年)」の故事を引き合いに出している。加賀本は、作者不詳だが、余程学のある人物であったようだ。

その昔、晋に「予譲」という人物がいて、主の仇を討つ為、身に漆を塗って、わざと皮膚病になり、炭を呑んで、口の利けない身となって、敵を欺(あざむ)き、目的を果たそうとした。高桑は、その様な忠義の士であると。

高桑は、襲撃後、厳しい追及に逃れられないと見て、「不動院」と称する山伏と、刺し違えて死んだ。その経緯は判らないが、この山伏も、大槻に恩顧を蒙った者と思われる。

画像は、「前田土佐守直躬」

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「高桑氏族」 覚書(122)

2013-09-28 10:45:28 | 歴史

加賀騒動(4)

史実・加賀騒動(2)

金沢の文学にも造詣深い、大学教授・青山克彌先生が、挙げて居られる「巷説・史実・両加賀騒動の相違対照表」は、同騒動の実相を知るのに、大変参考になるので、その概要を引用させて頂く。

が、「巷説・加賀騒動」  黒が、「史実・加賀騒動」(含・史家の見解)

大槻、家老となる。
その事実なし。世襲職である加賀藩家臣の最高職・「家老」に、大槻がなる事は出来ない。


大槻、お貞と密通。

側室のお貞(真如院)、寛延元年(1748)7月、江戸藩邸から、初めて国許(くにもと)・金沢城入り。大槻は、既にその3ヶ月前の4月、越中五箇山の流刑小屋に禁固。両人が、城内で顔を合わせる筈はない。

大槻、帰国途上の吉徳を越後の川で、故意に落馬させ、吉徳急逝。
第6代・前田吉徳、金沢で病死。延享3年(1745年)6月12日。(大槻は、吉徳に重用され、3800石の大身にまで出世。故に吉徳は、大槻の大恩人である。それを殺害とは、誰もその物語設定に疑問を持つ。)

江戸藩邸内の大槻、家来に命じて、第7代・宗辰(むねとき)毒殺に成功。
宗辰の死は病死、延享3年(1746年)12月8日。その5ヶ月前、大槻は吉徳公の看病不行届の廉(かど)で、国許蟄居を命じられ、江戸には居なかった。

大槻、帰国前、奥女中頭・浅尾に命じて、第8代・重熈(しげひろ)毒殺を命じて置く
重熈毒殺未遂事件は、史実でも、実際に2度も起きた不審極まる事件である。しかし大槻は、その数ヶ月前、既に越中に配流されていて、無関係。

大槻、越中五箇山の縮所(しまりしょ、牢)で自害。
寛延元年(1748年)9月13日自害。

浅尾、蛇責めの刑に処せられる。
その事実はない。寛延2年、藩は禁固中の浅尾を、密かに殺害。

お貞、浅尾の蛇責めを眼前にして、衝撃で病となり死ぬ。
側室・真如院は、浅尾の刑死より、8ヶ月前、幽閉されていた金沢城出丸の牢で、自ら望んで縊殺されたと、伝えられる。

写真は、「越中五箇山・流刑小屋」 富山県南砺市(なんとし)、加賀藩の流刑地、昭和45年復元、左下の刳(く)り抜きは、食物入れ口、附近の同種の小屋が、大槻の小屋、其処に「大槻伝蔵之碑」という石碑が建っている。以前見学に訪れたが、如何にも陰惨な雰囲気であった。

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「高桑氏族」 覚書(121)

2013-09-27 10:53:19 | 歴史

加賀騒動(3)

史実・加賀騒動(1)

加賀騒動本は、フィクションであるから、歴史家が、当時の多くの資料によって、厳格に検証した「史実」との乖離(かいり)が、甚だしいのは当然である。

大槻伝蔵による、藩主弑逆(しいぎゃく、主君殺害)を初めとする悪逆無道の諸事実は全くなく、近代史家の、大槻に対する評価は、「転換期に於ける、藩財政改革の大立者」・「藩内有数の能吏」・「藩政立て直しの功労者」である。つまり悪玉から善玉への、180度転換評価換えである。

大槻の家来筆頭である高桑政右衛門にとっても、「悪逆の主人」から「藩政功労者の主人」に替わり、名誉回復されたのであるから、こんなに喜ばしい事はない。

片や、大槻の悪行を暴(あば)き、正義の味方とされた前田土佐に対しての、近代史家の評価は、芳(かんば)しくない。藩主・前田吉徳と大槻による改革は、前田土佐を中心とする保守派にとっては、甚だ面白くなく、藩主・吉徳の死去と同時に、反撃を開始、大槻一派を掃討した。

そして大槻伝蔵の罪を数々捏造し、越中五箇山の流刑小屋に送って、自害させた。中には、こんな言い掛かりをつけた。流石(さすが)に、「加賀騒動本」の様に、主君吉徳を毒殺したとは、言わなかったが、御側用人なのに、主君の看護が行届かず、病死させた。これは大罪であると。御側用人は、藩政の補助役であり、現在の看護師の様な責務はないのに。

こうして、前田土佐に付いては、史家によって、善玉から悪玉色に変色させられた様子である。しかし前田土佐、個人に付いては、甚だ教養豊かで、優れた文化人として、高く評価されている。

金沢市に、立派な「前田土佐守家資料館」があり、貴重な遺品と共に、恐らく前田土佐の文化人としての面目を示す作品類も多く展示されているものと思われる。

前田土佐守家は、加賀100万石の家老職であるだけに、1万1千石であり、徳川幕府では、1万石で大名となるから、同家は正に大名並である。だから上記資料館は、9000点もの、貴重な資料を所蔵しているのであろう。

写真は、「前田土佐守家資料館」
金沢市片町2-10-17

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「高桑氏族」 覚書(120)

2013-09-26 11:43:48 | 歴史

加賀騒動(2)

巷説(フィクション)・加賀騒動

大槻伝蔵と前田土佐守直躬(なおみ、以下・「前田土佐」)

加賀騒動の主役は、数々の奸計を以って、100万石を謀(たばか)る悪玉の大槻伝蔵であり、片や脇役として、伝蔵退治に奔走する、正義の味方・善玉の前田土佐である。

加賀騒動は、人口に膾炙して、その成り行きを、今更此処で、述べるまでもないが、高桑事件に至る顛末を明らかにする為、ざっとでも、騒動経過を、復習(さら)っておく。

時は、第6代・前田吉徳(よしのり)の時代である。足軽出身の大槻は、吉徳に仕え、異常な出世欲に駆られ、悪辣な策略が功を奏し、遂には御側用人(おそばようにん)兼家老にまでに、伸(の)し上がった。

吉徳の藩政・財政改革は、卓越した力量ある大槻の手助けで進展し、大槻は大いに信頼され、毎年の加増に次ぐ加増で、遂に3800石の上士にまでになった。

これに対して、藩内保守派から羨望・憎悪が巻き起こるのは、必然であった。その中心が、1万1千石の家老・前田土佐であった。大槻弾劾状を4回も提出した。その執拗さに、藩主は怒り、家老職を罷免してしまった。

吉徳の側室・お貞(おてい、真如院)は、我が子の100万石藩主の座を願い、大槻の力を得ようと、誘惑・密通した。大槻は、恩ある吉徳を暗殺し、更に7代・宗辰(むねとき)を毒殺。

大槻は、更に奥女中頭・浅尾を籠絡し、8代・重熈(しげひろ)の毒殺を謀ったが失敗した。この異常事態の連続に、前田土佐は、大槻・お貞・浅尾3者の密着を掴み、大槻一味を一網打尽にする。大槻は、越中五箇山の流刑地で自害、浅尾は有名な「蛇責め」の刑の後に殺害、お貞は、終身座敷牢禁固。

覚書(119)の「映画看板絵」、中央が、大友柳太朗演じる「大槻伝蔵」、右側上が、山田五十鈴扮する「浅尾」、勿論名優・千田是也演じる「前田土佐」も「お貞」役等も出演している。

画像は、国芳画・「大月伝蔵」
江戸時代末期の浮世絵師・「歌川国芳」
石川県立郷土資料館 所蔵

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「高桑氏族」 覚書(119)

2013-09-25 11:09:30 | 歴史

加賀騒動(1)

「加賀騒動」と高桑政右衛門

日本の3大「お家騒動」と言えば、他に「伊達騒動・黒田騒動」があるが、最も有名なのは、加賀騒動であろう。何しろ100万石騒動である。しかも波乱万丈、勧善懲悪、陰惨奇怪な成り行きという、巧緻な劇的構成で、無類の面白さである。

加賀騒動本・最後の一章を飾るのは、“忠臣・高桑政右衛門”の仇討である。そして藩から追及される高桑の自死を以(も)って、長編「加賀騒動記」を締め括っている。

加賀騒動は複雑なので、主題である「高桑事件」が起きた経緯を辿る為に、本欄では、「1.巷説・加賀騒動」・「2.史実・加賀騒動」・「3.高桑仇討事件」の3部としたい。

通常「加賀騒動」と言えば、「巷説」のそれであり、フィクションである。しかし全てが虚構ではなく、加賀藩にも、例の通りの、藩主の相続を巡るお家騒動があり、その大筋に沿って、興味本位の虚構奇話で脚色している。

それで、歴代藩主・家老である「前田土佐守」以下、側室・藩士、加賀騒動の主役である「大槻伝蔵」や大槻の家臣・家老である「高桑政右衛門」等、全て実在の人物である。

「加賀騒動本」は、幕府によって、版行が禁止されていたが、民衆にとって、この絶大な人気本は、多数の写本となって、貸本屋を稼がしていた。

「加賀騒動」は、江戸時代の宝暦期(1750年代)以来、広く流布し、写本ばかりではなく、明治に至る迄、歌舞伎・人形浄瑠璃・講談・映画・歴史小説・大槻伝蔵の史伝小説等となり、人気が衰えなかった。

映画・「加賀騒動」

昭和28年、東映
村上元三 原作  山田五十鈴等出演

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