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「高桑氏族」 覚書(106)

2013-09-06 11:05:13 | 歴史

  覚書(105)からの続き

Comment(2) 

誠に貴重な、多くの資料と共にコメントをお寄せ下さり、有難う御座居ました。いつも当ブログを閲覧頂き、併せてお礼申上げます。

御先祖様に付きましては、当ブログの種本であります小生の「高桑氏族関連メモ帳」に数十年前から記載されていたのですが、何処から入手した資料なのかも、記憶になく、信憑性に不安を持っていました。

思い掛けなくも、頂いた資料で、「加賀から・姓名・上田へ」という基本事項で、一致して居りまして、大変安堵した次第です。

20年近く前ですが、知人が信州の博物館で、高桑某の来歴等の大きな資料が展示されていたが、君の先祖と関係あるか、と聞かれました。「高桑常義」となっていたかと、問い質しましたが、名前は覚えておらず、確認出来ませんでした。

知人が閲覧した博物館の名は、聞いた筈ですが、覚えていません。長野県は非常に広く、博物館・歴史館、資料館も各地にありますが、それは真田氏が上田から移封された松代藩城下町に在る「眞田宝物館」ではないか、と思っています。

覚書(101)で、御先祖様に触れる時、一体如何なる経緯で、金沢藩から上田に転じたのか、上田での事績はどの様であったのか等が分からず、あの様な短い記述で、隔靴掻痒の思いでした。

知人が見たという資料が、「高桑常義」ならば、それ等が明らかになるであろうと思いました。随分以前、「眞田宝物館」に入館した時は、その資料は展示されていませんでしたが、展示品は入れ替えるのですから、学芸員にその資料の存在有無を確かめてみれば良かったのにと、今更乍ら悔やんでいます。

小生の戦友の一人の出身地が松代でした。彼は戦友中でも、米軍相手に最も死闘を繰り広げましたが、小生と共に、奇跡的に生還・復員を果たしました。その様な事もあり、戦後最も親しくした友でしたが、5年程前に急逝、痛恨の極みでした。

その友の案内に従い、何回か松代を訪れました。同地は、川中島戦、10万石城下町の藩諸施設、武家屋敷・戦争末期・本土決戦に備えての、大本営・天皇御座所移転予定先であった大地下壕、松代城、眞田藩主邸宅、同庭園、松代温泉等、見所が多く、誠に興味の尽きない町でした。

お蕎麦屋さんも、米穀屋さんも、「刀屋」の屋号との事、如何にも御先祖様のご子孫らしいですね。全国の何十万軒の蕎麦屋、米屋では、先ず考えられない屋号です。「南美」銘の鍔、さぞ江戸時代に珍重されたのでしょう。これも当然「刀」ですね。

「六桜社」は、覚えがありませんが、「小西六」は、小生の様な老齢者には、懐かしい商号です。ご祖父様の、我が国写真界での、偉大なご功績に感じ入りました。

黄泉の国の御先祖様も、300年後のご子孫達が、美術工芸・諸技術・社会への異彩を放つ貢献にさぞご満足の事でしょう。

御一統様の御健勝を祈り上げます。