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「高桑氏族」 覚書(101)

2013-08-27 11:11:59 | 歴史

加賀藩(金沢藩)(2)

高桑氏族の「北遷」で、加賀に定住した氏族で、広義の加賀藩(加賀藩・富山藩・大聖寺藩)に仕官した藩士は、かなり居たと思われる。

その中で、加能(加賀・能登)関係の文書集(もんじょしゅう)にある記録に、何人かの中級藩士の名が見えるから、下級藩士を含めれば、3藩の大藩である事から、高桑姓藩士は、かなり居たのではないかと思う。

上記の「文書集」から拾えば、
高桑玄春 元禄16年(1703年)、藩医として召出され、150石を領し、享保9年(1724年)没、子孫、正悦・春悦、相継ぐ。

高桑五兵衛 大聖寺藩に仕えて、最も馬術に長じ、200石を受け、後、50石を加え、元禄4年(1691年)没、子孫相継いで、藩に仕える。
50石も加増されたのは、藩士として余程、精励恪勤したのであろう。

高桑祥右衛門 初め御算用者(会計係)で、年寄(家老等の重臣)中席執筆(重臣会議に列し、議事録作成に当たる役であろう)より出で、小頭並(こがしらなみ)に進んで、新知(新知行・新領地)60石を領し、後、30石を増すこと両次(2回)、文政3年(1820年)没、子孫相襲(あいつ)いで、藩に仕える。

又、「加賀藩給帳」に、「370石 高桑善兵衛」・「120石 高桑喜平」等の名も見える。

又、加賀藩・前田家の家臣で、後に信州・上田に転じた一人の高桑氏族が居た。初代を「高桑六左衛門尉常義(ろくざえもんのじょうつねよし)」と云い、本姓を「源氏」と伝えているのも、先祖が美濃源氏の高桑氏であるのは、確かであろう。上田に転じたと言うのは、真田氏の「上田城」に入って、武田氏の宿将であった真田氏に仕えたのであろう。

真田昌幸(まさゆき)は、知勇兼備の名将であった。それで徳川軍との2度の「上田城合戦」で、両度共完勝し、徳川軍に大きな恥辱を与えた。

特に第1次の15年後の、第2次合戦は、天下分け目の「関ヶ原戦」時であり、良く知られている「上田城合戦」であった。後の第2代将軍・徳川秀忠の軍は、中山道を進軍して「上田城」に達し、3万8千もの大軍勢で、上田城を一挙に押し潰そうとした。

処が、昌幸は智謀に優れ、且つ歴戦の勇将である。片や秀忠は、この初陣(ういじん)を飾れなかった。真田氏得意の詐術・謀略で、徳川陣を翻弄し、何日にも渡って、関ヶ原から遠く離れた上田の地に釘付けにし、小競り合い戦でも、眞田軍の奇襲で敗北し、散々の体で諦め、関ヶ原へと急いだ。しかし戦いに間に合わなかったという大失態を演じてしまった。激怒した家康は、秀忠との対面を許さなかった程であった。

写真は、「上田城」
 眞田昌幸により天正11年(1583年)築城、平城、国の指定史跡、関ヶ原戦後、城は破却されたが、江戸時代に再建

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「高桑氏族」 覚書(100)

2013-08-24 10:53:14 | 歴史

加賀藩(金沢藩)(1)

高桑氏族の「北遷」で、先ず取付いたのは、加賀国であったろう。現在に残る高桑氏族関連の諸記録文書等の数から言って、第1が石川県であり、第2が富山県、第3が新潟県、第4が秋田県である事から、高桑氏族が、時代を経て、加賀国から越中国、更に越後国、更には出羽国(羽後・秋田)へと分流、北上したと推定出来ると思う。

「加賀100万石」と言われるが、藩主の次子に10万石を分与して、越中・富山藩とし、第3子に同じく10万石の大聖寺藩(だいしょうじ藩・石川県加賀市)を与えた。つまり富山藩・大聖寺藩は、加賀藩の支藩であり、3藩が広義の「金沢藩」である。

加賀藩の藩祖は、「前田利家」であるのは、誰一人知らぬ者はいないが、名将とはとても言えない利家が、どの様にして超大藩祖たり得たのであろうか。

前田利家は尾張出身で、信長に仕えたが、織田家の家老格であった「鬼柴」こと猛将・柴田勝家の幕下にあった。それなのに、「賤ヶ岳の戦い」で、勝手に戦列から離脱してしまい、勝家が秀吉に敗北する一因にもなった。

この様に利家は、柴田軍に在って、秀吉に敵対したが、元々両者は、「竹馬の友」でもあり、秀吉が利家を許したことで、家格がずっと上だった利家が、秀吉に臣従し、100万石もの藩祖たり得た元が出来たのであった。

写真は、「金沢城・石川門」
江戸時代のままに現存する国の重要文化財
石川門は、「搦手門」(裏門)であった。

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「高桑氏族」 覚書(99)

2013-08-17 11:49:41 | 歴史

Comment

名前:高桑
残暑お見舞い申し上げます。まだまだ暑い日が続きますが、どうかお元気でご自愛ください。

名古屋市在住の高桑と申します。先日【高桑山慈恩寺】へ行ったときの事ですが、代々菩提寺に使用していた瓦が飾ってありました。その中に菊の紋章入りの瓦があったのですが、高桑宮に関係があるのでしょうか?ご住職さんは「高桑一族には天皇にゆかりのある方もいた」とおっしゃっていました。その場合、古文書に記述がみえる【高桑才左衛門】【高桑次郎】等と高桑宮はどの様な関係なのでしょうか?ご存知でしたらご意見等お聞かせください。

追伸 覚書もうすぐ(100)ですね。我が家では全ページラミネートして冊子にしています。

コメント有難う御座います。いつも当覚書閲覧下さり、併せてお礼申し上げます。全ページ、ラミネート加工との事、驚き入りました。小生は、毎回プリントして、ファイルに綴じ込んでいますが、いずれ色落ちしてしまう事でしょう。その点、lamination なら万全ですね。

菊紋章入瓦と高桑宮との関係はないのではないでしょうか。左様に思料致しますのは、小生の高桑宮に対する見解からです。それは愚見かも知れませんが、覚書92~95で述べさせて頂きました。ご覧頂ければと思います。

高桑才左衛門(覚書69、1530年前後)・高桑次郎(覚書39、1230年前後)・高桑宮(推定1320年前後)で、夫々(それぞれ)に、100年・200年・300年の時代と世代の開きがありますので、関係あるとは思えません。

紋章に付いては、「紋章学」という難しい複雑な専門分野がありますように、素人の小生の手には、到底負えません。菊紋だけでも多種多様のデザインがあり、一見同じようでも、専門家が見れば違うと言います。

鎌倉時代、天下無双の才人と謳われた後鳥羽上皇が、殊の外に菊を好み、自らの印として愛用したと言います。その後の諸天皇も、これを継承し、「菊花紋」が皇室紋として定着したようです。

それでも、菊の紋章が直ちに、皇室に結び付くものではないと思います。室町時代でも、江戸時代でも、寺院・武士・庶民・和菓子屋・仏具屋等が自由に使用可能だったからです。

天皇家の「菊の御紋」として、正式に「十六八重表菊」が制定されたのは、明治初年であり、天皇以外の皇族さえ使用が禁止されました。戊辰戦争に勝利した新政府が、天皇の権威を高める有力な手段としたのでしょう。

覚書も100近くになりましたが、あと2、30項目を残しています。齢を考え、何んとか今年中に完了したいと念願して居ります。ご後援の程、願い上げます。


「高桑氏族」 覚書(98)

2013-08-16 16:12:55 | 歴史

輪中(わじゅう)(2)

輪中は、一説によると、鎌倉末期まで遡る古い歴史を持っているが、原初の形態は、「尻無堤」であったと云う。三角形で言えば、上流(高地側)に向かって、2辺の堤を築き、底辺は開放されている。つまり「尻無し」である。

この2辺に囲まれた中で、「流し作場(ながしつくりば)」と呼ばれた水田が耕作されていたと云う。これが後に、底辺も閉じられ、且つ輪形(円形)になって、「輪中堤」が完成された。

日本の「輪中」と屡(しばしば)、対比されるのは、写真で良く見る、あの詩情豊かな、風車で有名な、オランダの「polder」である。英語でも蘭語でも同じ「polder」であるが、「干拓地」を意味する。

「輪中」と「ポルダー」の、根本的相違は、前者が「防水施設」であるのに対して、後者は「排水施設」である点である。

似ている点を強いて挙げれば、両者とも堤防を設置しての「水処理施設」である。しかしその堤防が閉じているか、開いているかの違いがある。

歴史的には、両者とも古い歴史を誇っている。「輪中」は、14世紀以来、「polder」は、15世紀以来と言う。

写真は、「風車群」

Images



「高桑氏族」 覚書(97)

2013-08-16 10:04:04 | 歴史

輪中(わじゅう)(1)

濃尾三川の源流地では、互いに100kも離れているが、高桑を含む美濃南西部まで、流れ下って来て、急に互いの距離を縮める。つまり三川が集中する。

当然「水場地帯」となって、洪水を頻発させる。江戸時代前半期の140年間に例を取ると、大洪水だけで、実に110回と記録されている。合流点である高桑邑に於ける、古来からの、その頻度と被害は、推して知る可きである。

この様な厳しい地帯での水防対策として、種々の工夫がなされて来たが、その最たるものは、「輪中」である。輪中とは、村落・田畑を、輪形(円形)の土堤で囲む水防施設である。この堤を「輪中堤」と称した。

この地帯を、他の「水場地帯」と区別して、特に「輪中地帯」と言う。高桑を含む美濃・南西部から伊勢・長島(三重県桑名市長島)に掛け、東西40k、南北45k、大小80余の輪中が犇(ひし)めいていた。それなのに、濃尾平野が広がる隣国・尾張に輪中が無い理由は、覚書(96)に述べた通りである。

輪中は、日本の他地帯では皆無であり、世界的にも類が無い、特殊な水防施設である。それで世界の人文地理学者の注目の的であり、研究対象になっている。

大小80余の輪中と上記したが、先ず小字・集落を、簡単な低い堤で囲み、次に1村を堤で懸廻し、更に数ヶ村から10数ヶ村の「広域輪中」を築いた。そして各々(おのおの)「何々輪中」と称して、厳しい自治的「水防協同体」を形成した。高桑村は、広域の「佐波輪中」に所属していた。

写真は、「輪中」

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