土岐氏と高桑氏(2)
鎌倉時代(2)
源 頼光の子孫・源 光信が、美濃土岐郷に土着して、土岐氏を称したが、その孫の土岐光衡は、鎌倉幕府の成立に伴い、源 頼朝の御家人(家臣)になって、確固たる地位を占めた。しかし「承久の乱」では、光衡の子・光時は、反幕府側に走った。反幕府・後鳥羽上皇側は完敗したのであるから、これでは土岐氏の滅亡となる。しかし光時の兄・光行は、幕府の記録である「吾妻鏡」にも登場するように幕府側の武将として戦った。
こうして光行・光衡兄弟は、敵・味方に分かれたが、この二股策は、どちらが勝っても負けても一族の存続が担保される。但しこの場合、兄弟が談合・合意の上だったかどうかは分からない。
合意の上で大成功を収めた、誰でも知っている例が、真田一族である。関ヶ原合戦時、策士の真田昌幸と次男の幸村は西軍に、長男の信之は東軍にと示し合せた。こうして戦後信之は、信州松代藩・13万石の中大名として幕末迄も栄えた。
上記の土岐光衡の孫・光定は、鎌倉幕府第9代執権・北条貞時の娘を妻とした事によって、土岐氏は益々幕府での有力な地位を高めた。この光定の子が頼貞で、以後頼貞の系統が、土岐氏の嫡流となった。
画像は、「土岐頼貞」(上記)