「承久の乱」 (16)
三上皇配流(1)
後鳥羽上皇
上皇軍は、「木曽川の戦い」に敗北して潰走し、京都を目前にして、「宇治川の戦い」に最後の望み賭けたが、到底それは達せられなかった。上皇軍は雪崩を打って、更に敗走し去り、幕府全軍が入洛(じゅらく)を果たして戦いを終えた。承久3年5月15日から6月16日まで、上皇軍の惨敗続きで、僅か1ヶ月で勝負が付いてしまった。
高桑一族を含めて、上皇側への激しい追及・探索・処罰・処刑が相次いだのは、言うまでもない。数次前出の「能登守藤原秀康」も京都から逃亡したが、捕えられて処刑された。
上皇に対する処分も厳しかった。後鳥羽上皇は隠岐島、土御門上皇は土佐、順徳上皇は佐渡島への配流であった。
後鳥羽上皇は、18年間も隠岐島に留め置かれたままで薨去した。60歳であった。「行幸」ならば、必ず「還御」がある。しかし配流なので、それはなかった。非情な第2代執権・北条義時も、第3代・泰時も、上皇の最期まで、帰京を許さなかった。上皇の無念さが思いやられる。
写真は、「後鳥羽上皇・隠岐火葬塚」
「承久の乱」から100余年後、衆知の通り、後醍醐天皇も、討幕に失敗して、同じ北条氏によって、隠岐島に流されている。この場合は、反幕武将(有名な「名和長年」)の助けで、見事島からの脱出に成功していた。後鳥羽上皇配流は、北条政権の確立期、後醍醐天皇脱出は、同政権崩壊期を象徴している史実と言えよう。