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「高桑氏族」 覚書(30)

2012-05-14 09:11:51 | 歴史

「承久の乱」 (16)

三上皇配流(1)

後鳥羽上皇

上皇軍は、「木曽川の戦い」に敗北して潰走し、京都を目前にして、「宇治川の戦い」に最後の望み賭けたが、到底それは達せられなかった。上皇軍は雪崩を打って、更に敗走し去り、幕府全軍が入洛(じゅらく)を果たして戦いを終えた。承久3年5月15日から6月16日まで、上皇軍の惨敗続きで、僅か1ヶ月で勝負が付いてしまった。

高桑一族を含めて、上皇側への激しい追及・探索・処罰・処刑が相次いだのは、言うまでもない。数次前出の「能登守藤原秀康」も京都から逃亡したが、捕えられて処刑された。

上皇に対する処分も厳しかった。後鳥羽上皇は隠岐島、土御門上皇は土佐、順徳上皇は佐渡島への配流であった。

後鳥羽上皇は、18年間も隠岐島に留め置かれたままで薨去した。60歳であった。「行幸」ならば、必ず「還御」がある。しかし配流なので、それはなかった。非情な第2代執権・北条義時も、第3代・泰時も、上皇の最期まで、帰京を許さなかった。上皇の無念さが思いやられる。

写真は、「後鳥羽上皇・隠岐火葬塚」

Gotoba

「承久の乱」から100余年後、衆知の通り、後醍醐天皇も、討幕に失敗して、同じ北条氏によって、隠岐島に流されている。この場合は、反幕武将(有名な「名和長年」)の助けで、見事島からの脱出に成功していた。後鳥羽上皇配流は、北条政権の確立期、後醍醐天皇脱出は、同政権崩壊期を象徴している史実と言えよう。


「高桑氏族」 覚書(29)

2012-05-11 15:38:25 | 歴史

「承久の乱」 (15)

「武田氏」と「小笠原氏」

「高桑氏族」  覚書(28)の写真参照

「承久記」では、鎌倉方の「武田殿」・「小笠原殿」と並んで、上皇方の「高桑殿」も「殿」付で呼んでいる。それは武田・小笠原両氏が、鎌倉出撃に当たり、「大将軍」に任じられているからであろう。同じ様に、高桑氏も「大将軍」に任じられているからである。但し同じ「大将軍」でも、「高桑大将軍」は、鎌倉方のそれと比較し実態上、かなり格が落ちるのは否(いな)めない。

高桑武士団は、木曽川で幕府軍の東山道軍と対峙した。その東山道軍の中に、共に甲斐源氏の「小笠原次郎長清大将軍」と「武田五郎信光大将軍」がいた。前出の勇士・荒三郎は、小笠原氏の郎従(郎党・兵卒)であった。

小笠原氏は、鎌倉以来幕末まで続く武家の名門であった。教養の代名詞である「小笠原流」は、元来は武家礼式の一流であった。武田晴信(信玄)は、武田信光の15世の孫である。

写真は、「武田館址」 (山梨県甲府市)

Takeda


「高桑氏族」 覚書(28)

2012-05-10 08:45:19 | 歴史

「承久の乱」 (14)

「高桑大将軍」の戦死(3)

「高桑氏族」覚書(27)から続く「承久記」を少々原文で読んでみると、

ヌレタル矢ヲハゲテ(濡れた矢の水滴を拭ぐって)、思フ矢束(やたば)飽(あく)マデ引テ放チタレバ(これと思う矢を取って、矢の長さ一杯に引いて放つと)、高桑殿ノ弓手(ゆんで)ノ腹(左腹)ヲ、鞍(くら)ノ末(すえ)マデコソ射附(いつき)タレ。馬ヨリ逆(さかさ)ニ落テ、此世ハ早ク盡(つき)ニケル(即死した)。宣旨ノ方(上皇方の兵)ニハ、是(これ)ヲ見テ、我モ我モト懸(か)ケレバ(一斉に駆け寄って来たので)、荒三郎ハ又(また)水ノ底(そこ)ヘゾ入ニケル。

荒三郎の活躍は、現代戦の潜水艦による魚雷攻撃の800年前、鎌倉初期版であり、日本戦史上、稀有の戦果であろう。

写真は、「承久記・和装古版本」 (早大図書館蔵)

Waseda

左の3行目に、次の「高桑氏族」覚書(29)に登場する「武田五郎」・「小笠原次郎」、両大将軍の名が見える。


「高桑氏族」 覚書(27)

2012-05-09 09:33:32 | 歴史

「承久の乱」 (13)

「高桑大将軍」の戦死(2)

「承久記」の略記(「高桑氏族」覚書26からの続き)

馬上の高桑大将軍を中心に、高桑武士団の一族郎党が、木曽川・大井戸渡の右岸に陣を構え、幕府軍の渡河を待受けていたが、未だその気配はなかった。しかし左岸の敵陣から、達者な水練を見込まれて、瀬踏み(渡河点偵察)を命じられた一人の剛(ごう)の者が、潜水を繰返しながら、密かに高桑陣の岸に近づいて来ていた。味方では不幸にも誰一人気付いた者はいなかった。

この勇士は19歳で、名は「荒三郎」と聞こえた。彼が対岸の端で、そっと少しだけ、水面から顔を出してみて驚いた。「高桑」の姓名を大書した幟旗の傍らに、馬上の武士がいた。“あっ、あれは「高桑殿」ではないか。恰好の敵を見付けた。何んとしても、この敵将を射抜いてくれよう。これに失敗ったら(しくじったら)、己(おのれ)が、此所(ここ)で死ぬまでだ。”荒三郎の闘志は、凄まじかった。

写真は、「大河・木曽川」

Kisokawa_2

昭和31年、写真の「濃尾大橋」が架けられるまでは、渡船であった。高桑の地から、南東7km地点の渡。荒三郎は、この様な大河を弓矢を背に、潜水して対岸に到ったのであるから、驚異的であった。


「高桑氏族」 覚書(26)

2012-05-06 09:55:33 | 歴史

「承久の乱」 (12)

「高桑大将軍」の戦死(1)

「承久の乱」の経過に付いて、かなり細部まで分明なのは、鎌倉幕府の公式史書である「吾妻鑑」と著者不明の「承久記」が残されているからである。前者は勿論幕府寄り、後者は朝廷寄いの記述になっている。後者は軍記であるが、「平家物語」や「太平記」等の物語的戦記とは異なり、歴史家からも「吾妻鑑」を補う、史料的価値の高い資料と見られている。その「承久記」は、朝廷側の記録に基づくものらしく、「高桑武士団」や「高桑大将軍」戦死の模様等が、かなり詳細に語られているので、以下抄記する。

吾妻鑑 承久3年6月 「鏡右衛門尉久綱(高桑氏と同じく、美濃源氏で、上皇側の武将)、留干此所(ここにとどまり)、註姓名於旗面(姓名を旗面に註し)、立置高岸(高く岸に立て置き)、合戦(す)。

鏡氏は、「木曽川の戦い」に敗れた後も、一族と美濃源氏の面目の為、尚岸に踏み留まり、戦い続けて自刃した。その勇武さは、敵ながら天晴れと讃えて、この様に敵方の「吾妻鑑」に記録を残したのであろう。

上の記録で分かる事は、当時は戦陣にあって、後時代の様に大・小名が、各紋所の幟旗(のぼりばた)を掲げて戦うのではなく、一族の姓名を大書した幟旗を自陣に押立てていたらしい。当時の戦場では、現代戦とは反対に、目立ちたがりは必要であった。一族の名誉と事後の恩賞の為である。しかも「承久記」によると、高桑大将軍は、馬上にあった。これでは目立たない筈がない。これが仇(あだ)となってしまった。忽ち敵方に「高桑殿」と分かってしまい、絶好の狙撃目標にされ、緒戦でその犠牲となってしまった。「承久記」の記述からすれば、「木曽川の戦い」、両軍を通じての戦死第1号であった。

写真は、「関ヶ原合戦絵巻(部分)」

Sekigahara

紋所の幟旗で溢れている。鎌倉初期では、姓名大書の幟旗であったらしい。