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「高桑氏族」 覚書(57)

2013-01-30 09:32:57 | 歴史

土岐氏と高桑氏(4)

戦国時代(1)


斎藤秀龍は晩年入道して、道三と号した。道三に付いては、戦国の世とは言え、一介の油商人から美濃一国を領した稀に見る人物として、しばしば TV drama 等の「国盗り物語」に描かれ、人口に膾炙しているので、今更記述するまでもない。しかし「美濃と言えば土岐、土岐と言えば美濃」と言われていたのに、道三はその土岐宗家を断絶に追込み、土岐氏に従属していた高桑氏も、高桑城が道三の内通者に占められる等の事態に立ち到ったのであるから、一応「国盗り」迄の過程を略記する。美濃一国を略取した位であるから、その手口は悪辣を極め、“蝮(まむし)の道三”と言われる程の、嘖々たる悪名も無理はないと思われる。

道三の父は、京都の寺の僧侶であったが、還俗して土岐氏の家臣・長井氏に仕えた。道三は山崎屋と号して、油売りを業としていたと伝えられるが、美濃守護土岐氏の老臣・斎藤利安の門に出入りしている中に、利安の家臣・西村家を継ぎ、享禄3年(1530年)、主(あるじ)の利安を殺してしまった。道三は父の死後、家督を継いだが、上記の父の主である長井氏の惣領も倒した。

天文4年(1535年)、道三は土岐氏第14代・頼芸(よりのり)を担いで、頼芸の兄・第13代・頼武を守護職から追放し、道三が土岐家の実権を握った。天文7年(1538年)には、守護代・斎藤家を乗っ取った。そして遂に土岐頼芸を追って、美濃一国を横領した。

画像は、「斎藤道三」

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「高桑氏族」 覚書(56)

2013-01-25 10:27:17 | 歴史

土岐氏と高桑氏(3)

室町時代(3)


第3代将軍・足利義満は、有力守護大名の勢力削減を図った(覚書54)。土岐氏の場合も、土岐氏の内紛を挑発して、これを成功させた。これが「土岐氏の乱」である(明徳3年・1390年)。

土岐氏第6代・3ヶ国守護職第3代の土岐頼康の死後、義満は3ヶ国の中、美濃・伊勢の守護職を頼康の甥で、養嗣子として迎えた土岐氏第7代・土岐康行に与え、分割した尾張を康行の実弟の満貞に与えて、土岐氏の分裂を計った。それで実兄弟の争いとなり、「土岐氏の乱」に発展してしまった。

3ヶ国守護を継ぐ積りであった康行は、これを不満として、実弟・満貞の尾張守護を阻止しようとして、土岐氏の内輪揉めとなった。老獪な義満はこれ幸いと、これに介入し、康行討伐軍を派遣して康行を没落させてしまった。

これで土岐氏嫡流は、上記頼康の弟・頼忠(土岐氏第8代)に移り、以降この流れは、斎藤道三による土岐氏滅亡まで続いた。

上の頼忠の子が第9代・土岐頼益であり、高桑城を攻撃・陥落させている(覚書55)。高桑氏の土岐氏従属は、当然土岐氏嫡流家に対してであり、上記の第7代・土岐康行であった。それが突然義満の討伐軍に襲われた。その討伐軍の主力が頼益隊であったと思われる。それで高桑城も攻撃されたのであろう。そうであるならば、義満は土岐氏を制圧するのに、土岐氏同志を争わせ、更に頼益と言う股肱の臣である土岐氏を向かわせている。土岐氏の制圧に土岐氏を二重に使っている事になる。

頼益の高桑城攻撃前後の高桑城主に「高桑大学」の名が記録に見える。

画像は、「足利義満」

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「高桑氏族」 覚書(55)

2013-01-24 10:13:34 | 歴史

土岐氏と高桑氏(3)

室町時代(2)


14世紀・南北朝時代、京都に「洞院公定」という公卿がいて、「尊卑分脈」を著わした。貴族諸家の系図集大成である。これは最も信頼の置ける系図として、歴史家も頻繁に利用引用しているという。

この中の一系図の「注記」に、足利義満の武将として、数々の戦さに軍功を挙げた土岐氏第9代・美濃第6代守護大名.・「土岐頼益」が、「高桑城」を攻撃して、落城させたとある。これは間違いなく「土岐氏の乱」と言われる土岐氏内紛時の事態であったろう。義満は内紛を煽り、土岐氏を制圧するのに、土岐氏を使うという狡猾さであった。高桑氏は土岐氏に従属していたが、一方の土岐氏であった頼益に攻撃されたのであろう。この頼益は優れた武将で義満に重用され、「幕府七頭」の一家として幕閣の重鎮となっていた。

日本の姓氏研究の原点は、上に挙げた「尊卑分脈」であるが、第2の原点になっているのは、太田 亮が半生を掛け、心血を注いで昭和11年に完成させた「姓氏家系大辞典」である。高桑氏の項を要約すれば、「高桑、源姓、美濃国厚見郡高桑邑より起こる」とある。第3の原点と言えるかどうかは、兎も角として、姓氏研究の第一人者とされる駒沢大学教授・渡辺三男博士の「日本の苗字」の高桑の項は、前者と殆ど同じ内容になっている。

写真は、「土岐氏墓地」
中央2基は、第5代守護・土岐頼忠と高桑城を攻撃した、その子頼益の墓
禪蔵寺 岐阜県揖斐郡池田町

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「高桑氏族」 覚書(54)

2013-01-23 09:45:36 | 歴史

土岐氏と高桑氏(3)

室町時代(1)

室町時代と言えば、室町幕府初代将軍・足利尊氏が先ず挙げられるのは当然であるが、第3代・足利義満は、50年余も続いた南北朝内乱を終息させ、所謂「南北朝合一」(明徳3年・1392年)を成就し、早くも室町幕府の最盛期を現出させたのは衆知の事実である。

義満は、壮麗な「花の御所(室町殿)」営む一方で、京都北山の地に豪壮な山荘を造営した。その山荘の一部が、一般に「金閣寺」と呼ばれる「鹿苑寺」であるのも、良く知られている。

義満は、その勢威を万全に保つ為、南北朝時代に力をつけた有力守護大名の制圧に乗り出した。その対象にされたのは、土岐氏・大内氏・山名氏であった。義満が挑発した「土岐氏の乱」(後述)では、高桑氏も巻き込また。そして土岐氏は、3ヶ国守護職が1ヶ国に削がれてしまった。

山名氏は、実に11ヶ国という大大名であったから、義満の標的にされない筈はなかった。土岐氏と同じ伝で制圧されてしまった(「明徳の乱」・明徳2年・1391年)。実は山名氏の本姓は、新田氏である。南朝の新田義貞と同祖であったが、山名氏は北朝に属して、11ヶ国も獲得していた。

新田氏の始祖・義重の長男・義兼は、上野国新田郡の嫡流家を継ぎ、義重の3男・義範は、上野国山名郷(群馬県高崎市の西に接す)に「山名城」を築き、山名氏を名乗って始祖となった。その子孫・山名時氏は大躍進を遂げ、守護職全国一と言われる大勢力となって、義満に狙われてしまった。

画像は、「花の御所(室町殿)」
京都北小路室町

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「高桑氏族」 覚書(53)

2013-01-21 10:03:16 | 歴史

Comment

 

覚書拝見しました。私も高桑の姓を名乗る一人です。私の父親は富山の利賀村出身です。(10年前他界)父親からは、先祖は有名ではないが武士だったらしいと聞いています。私はこの覚書で、高桑一族の存在や、高桑城のことを知り、我が家は末裔では?と思っています。高桑城址や承久の乱古戦場、慈恩寺には何度も足を運び、ご住職の方とお会いすることもでき、高桑次郎氏を祀ってある事も知りました。これからも岐阜県柳津町を探索していきたいと思います。どうぞお元気で高桑氏族の研究をお続けください。更新楽しみにしています。
名古屋市在住  高桑  年齢45歳
投稿 高桑|2013/01/19  00:49

 

コメント有難う御座居ました。慈恩寺に高桑次郎を祀ってある事は、寡聞にして存じませんで、貴重な新情報でした。

高桑一族が本貫美濃を追われ、新天地の北陸に達しても、武士団体制を維持し、現地で土豪化して、小なりと雖も城塞を構えたりしたようです。例えば越中国砺波郡に「漆谷城」を築き、高桑勘解由左衛門(かげゆ)居城、という記録があります。又加賀国石川郡の「舘山城」に高桑備後住めり、という記録も見えます。百万石加賀藩の藩士の中に、上・中・下級の何人もの高桑姓藩士名を挙げる事が出来ます(後述)。

尚上記の北陸の国名で、蛇足になりますが、飛鳥時代に広大な「越国」一国が、越前・越中・越後と三国に分立し、更に平安時代に、越前国から加賀国が分立しました。それで越前と越中の間に加賀が入り込み、越前と越中とは国境を接しなくなってしまいました。主力の高桑一族がその越前には留まらず、加賀・越中、小生の高桑姓父母の出身地・越後の北陸三国に定着した事情については、後述を予定しています。