加賀騒動(4)
史実・加賀騒動(2)
金沢の文学にも造詣深い、大学教授・青山克彌先生が、挙げて居られる「巷説・史実・両加賀騒動の相違対照表」は、同騒動の実相を知るのに、大変参考になるので、その概要を引用させて頂く。
赤が、「巷説・加賀騒動」 黒が、「史実・加賀騒動」(含・史家の見解)
大槻、家老となる。
その事実なし。世襲職である加賀藩家臣の最高職・「家老」に、大槻がなる事は出来ない。
大槻、お貞と密通。
側室のお貞(真如院)、寛延元年(1748)7月、江戸藩邸から、初めて国許(くにもと)・金沢城入り。大槻は、既にその3ヶ月前の4月、越中五箇山の流刑小屋に禁固。両人が、城内で顔を合わせる筈はない。
大槻、帰国途上の吉徳を越後の川で、故意に落馬させ、吉徳急逝。
第6代・前田吉徳、金沢で病死。延享3年(1745年)6月12日。(大槻は、吉徳に重用され、3800石の大身にまで出世。故に吉徳は、大槻の大恩人である。それを殺害とは、誰もその物語設定に疑問を持つ。)
江戸藩邸内の大槻、家来に命じて、第7代・宗辰(むねとき)毒殺に成功。
宗辰の死は病死、延享3年(1746年)12月8日。その5ヶ月前、大槻は吉徳公の看病不行届の廉(かど)で、国許蟄居を命じられ、江戸には居なかった。
大槻、帰国前、奥女中頭・浅尾に命じて、第8代・重熈(しげひろ)毒殺を命じて置く。
重熈毒殺未遂事件は、史実でも、実際に2度も起きた不審極まる事件である。しかし大槻は、その数ヶ月前、既に越中に配流されていて、無関係。
大槻、越中五箇山の縮所(しまりしょ、牢)で自害。
寛延元年(1748年)9月13日自害。
浅尾、蛇責めの刑に処せられる。
その事実はない。寛延2年、藩は禁固中の浅尾を、密かに殺害。
お貞、浅尾の蛇責めを眼前にして、衝撃で病となり死ぬ。
側室・真如院は、浅尾の刑死より、8ヶ月前、幽閉されていた金沢城出丸の牢で、自ら望んで縊殺されたと、伝えられる。
写真は、「越中五箇山・流刑小屋」
富山県南砺市(なんとし)、加賀藩の流刑地、昭和45年復元、左下の刳(く)り抜きは、食物入れ口、附近の同種の小屋が、大槻の小屋、其処に「大槻伝蔵之碑」という石碑が建っている。以前見学に訪れたが、如何にも陰惨な雰囲気であった。
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