2012年3月18日。午後4時過ぎ。息子は右ヒザを抱え、苦痛に顔を歪めた。
あれから1年。
コウスケは自分では払いきれない運命から避けることはできなかった。
その時は、まさか1年間、これほどの苦悩を強いられるとは思わなかった。
我が家にとっては、いろいろなものが根底から覆った。
中学に入学して順調だった。いや、順調すぎたのかもしれない。
試合には先発で出場できた。そのうち、重要な役割を期待された。結果を残しはじめた。
トレセン活動も順調だった。地区トレセン、県トレセンで結果を残し、県トレセン選手になった。県トレセンの練習会で何かが認められ、中国トレセンへ選出された。
中国トレセンで躍動し、何とナショナルトレセンに選出された。
チームに帰ると、一つ上のカテゴリーに抜擢された。
そこでも一定の結果を残した。
13才のサッカー小僧は順調に成長していた。
そして地域最高峰リーグの開幕を待つばかりの2012年3月18日、午後4時過ぎ。何の前触れもなく、”それ”は突然に訪れた。
結局、3度の手術を受けた。最後の靭帯再建手術から4カ月が経過した。
2013年3月18日がやってきた。
私の心の中で、3月18日のあの場面を思い出さない日は、1日たりともなかった。
本当に1日もなかった。365日、3月18日のあの場面を思い出した。
1年365日はコウスケにとって、苦痛と苦悩と我慢と屈辱と忍耐の毎日だった。
でも、最も辛い1年間が過ぎ去った。
新しいシューズを履き、少しずつ、ゆっくり走り始められそうだ。
久々にいつもの5号球でトス練習をした。
インサイドトス。インステップトス。ももトラワンタッチトス。胸トラワンタッチトス。
そして久々にコウスケのボールリフティングを見た。
数えていたら、楽に500回は超えた。もう数えるのはやめた。
彼のサッカーへの息吹が膨らんだ。
もうすぐ桜が咲く。
2012年に桜は儚く散り去った。
2013年の桜は美しくゆっくり咲くだろう。
そして、綺麗に正しく散っていくだろう。
多くのものを失い、いくつかの大切なものを得た1年が過ぎ去った。
失った数以上に、ひとつ、ひとつ大切なものを拾い続けながら、この1年を過ごせばいい。
これだれ苦しんだのだから、次はきっといいことがいっぱいあるよ。
ね。キャプテン!
朝、7時前に起きてトレーニングマッチに出かけた。もちろん”見学・応援”だ。
同級生の2年生のトレーニングマッチ。
私の感想は・・・・・。『う~~~ん』かな。
まあ、それはそれでいい。
息子のちょっとしたトラブルは、それらには全く関係のないシュチエーションで、少々次元の低いものだった。
最終的には何とかリカバリできたものの、私は彼に”不信感いっぱいの視線”を送った。もちろんそこに”意図”はある。
彼は素直に謝った。
その後、母親の言葉をヒントに、新しいことを始めた。
そうすると、。少々次元は低いトラブルは、それなりの意義があったといえそうだ。
そうだよ。
それが理解できたことで、”よし”としよう。
5月26日(土)息子のクラブチームの総会が開かれ、昨年度の会計報告や今年度の事業計画や予算が報告された。
その後、懇親会が催され、私も参加した。
サッカー小僧たちの育成の方々と、お酒を酌み交わすことはあまりないので、それぞれサッカー談議に花が咲く。
特に、学年が違う育成者の方々とは挨拶程度の会話はするが、なかなかゆっくり話す機会はない。私と話してくださる方々のほとんどの方が
「コウスケのケガの具合はどうなんですか?いつ頃から復帰できそうですか?」
と、訊いてくださる。そして大抵の方々が
「コウスケなら、大丈夫。きっと復活する。」
と言ってくださる。本当にありがたいことだ。
懇親会も終わり、二次会の会場へと歩きながら移動している時、偶然、監督さんと並んで歩く格好になった。
監督さんはいつだってコウスケのことをも守ってくださっている。監督さんはいきなり、
「コウスケ、あいつは何なのですか?自分がケガで大変なのに、どうしてチームや仲間のことが考えられるんですか?」と切り出された。そして、
「ボクはコウスケが帰ってくることを期待したり、信じたりしていません。帰ってくると決めてますから・・・。」
はっきりと言い切って下さった。涙が出るくらい有難かった。多分、涙が流れたと思う。暗くてよかった。
息子は、右ヒザのケガを抱えながら、いろいろなものに立ち向かっている。
今はひたすら復帰し、躍動するために”昇華”している。
そうしたら、コウスケの躍動するシーンに出会いたかった。
ある動画(You Tube)に躍動するコウスケが記録されていた。
躍動する姿←ここをクリックしてください。
(ゼッケン5がコウスケです。
いつの日にか、ピッチへ復帰するコウスケへ向けて・・・
今日(5/20)第27回日本クラブユースサッカー(U-15)選手権大会 山口県大会決勝戦が行われた。山口県最強の対戦相手との戦いは、一進一退のゲーム展開で延長戦に突入。延長戦でも決着がつかず、PK戦となった。5人全員が成功。サドンデスになった。結局、我がチームの7人目が外してしまい、勝利はするりと逃げ去った。
2月の新人戦のリベンジをされた格好になった。
2月の新人戦はピッチで躍動し、PKを決めた息子は、躍動することを許されず、右ヒザに大きなサポーターを装着して、ビデオ撮影をしていた。
試合会場で、何人かのお父さんやお母さんに久々に会った。ライバルチームやトレセン仲間のお父さんやお母さんだ。
皆さん、息子を見かけると、声をかけていただいたようだ。そして口々に、「コウスケと話したら、涙が出そうになった」と言いながら、励まして下さった。
コウスケのために YouTubeの動画を作ってくださった友人にも出会った。
しかし、動画のお礼を言うことができなかった。本当はもっと感謝の意を伝えるべきだったが、なぜだかそれが出来なかった。感謝の意を言葉にしてしまうと、思いが薄れてしまうように思えた。今までと同じように、ごく普通に会話を交わした。私の中では『でも、その方が正しかったのかもしれない。』と、漠然と思った。そして、別れ際に、握手をしていただいた。握手した手に、最大の感謝の意を込めた。
トレセン仲間のお父さんやお母さんともサッカーを観ながら会話した。
手術の日にお見舞いにきてくれたサッカー仲間のお父さんは、いつもの笑顔で接してくれた。
別の方は「メールで状況を確認したかったが、なかなか、できなかった。」と、我がことのように心配してくれていた。
そして、口々に「コウスケが明るく話してくれた。」と、私に教えてくれた。
でも許してもらえそうな気がする。
本当は、もっと感謝の意を伝えるべきだったが、なぜだかそれが出来なかった。でも、でも許してもらえそうな気がする。
また、サッカー場で会って、いつもと同じサッカー談義をすることが、サッカー仲間にとって一番自然な姿だから・・・・・。
いつの日にか、ピッチで躍動する息子を観ながら、それができることを待っておくことにしよう。
皆さん、有難う。
4月30日。待ちに待った”退院の日”となった。
もう、仕事の前や仕事が終わった後、病院に行かなくても、家に帰れば息子に会える。
ごく当たり前のことだが、涙が出るくらい嬉しい。
退院した足で、退院祝いのケーキを買い、家族でささやかな退院祝いを行った。
サッカーの無い休日の午後、ゆったりとした時間が流れた。
久々にゆっくり触れ合うと、息子は大きく、逞しくなっていた。
病院で習ったリハビリも自宅で行う。手術した箇所以外のストレッチや、筋力強化への準備をする。わずか、15分程度のものだが、体に触れ、コミュニケーションを取りながらリハビリを行うと、忙しさにかき消されかけていた”絆”を取り戻すような感覚を覚えた。何しろ、息子は常に走り続けていたから・・・・。
ゴールデンウィーク後半は、更にゆっくりと、触れ合うことにしよう。
絆再構築から徐々に立ち上がることにしよう。
4/28(土)、手術の後、1泊の外泊が許された。
外泊の前、リハビリが行われた。
リハビリをしてくださる医学療法士の方が先ず取り組んだのは、「心をほぐす」ことだった。
その後、「傷口をほぐし」、少しずつ「負荷」をかけた。
とても、穏やかな口調になかに、凛とした厳しさが垣間見えた。
こうやって、息子は復活する。有難いことだ。
病院を出た後、所属のクラブチームのプログレスリーグ第4節、サンフレッチェ広島戦を観戦に行った。
父兄の方々は息子の姿を見つけると、たくさん声をかけてくださった。落胆や励ましや復帰への期待など、様々な声をかけていただいた。
コウスケの気持ちはグランドの中にあった。試合を観戦しながら、いろいろな事を語った。
チームの仲間と1週間ぶりの再会を果たした。こんなに長く逢っていないことはなかったので、なんだか気恥ずかしそうだった。
試合が終わって、監督に”現状報告”に行った。
「監督~~。監督~~。」息子は松葉杖を一生懸命扱って、監督の元に走った。今できる最大のスピードで・・・・。
息子の姿を確認した監督は息子に走り寄り、その瞬間に、大粒の涙を流しながら、息子の体を抱いて下さった。
びっくりするくらいの大粒の涙は次々流れた。
息子は今できる最大の復帰目標を監督に告げた。
「コウスケ、待ってるから。」その間も、監督の目から涙はこぼれ続けた。
そしてもう一度、息子を抱きしめて、こう言って下さった。
「待ってるから。」
我々両親の目からも涙が流れた。
夕方、夕食の買い物を終えて帰宅しようと車を運転していた、オヤジの携帯電話が鳴った。
小学校のスポ少のコーチからの電話だった。
「今から、バーベキューをしますが、家族全員で家にきませんか?コウスケの元気を取り戻すために。」
お言葉に甘えて、家族全員でお邪魔した。
肉を焼きながら、いろいろな話で盛り上がった。勿論、サッカーの話題が中心だった。
息子は心身ともに元気をいただいた。
たった1日の外泊だったが、今日ほど”有難い”と思ったことはなかった。
息子を励まし、息子のために涙して、息子を元気づけて、息子の復帰を願ってくださるたくさんの人がいる。
本当に・・・・・
”有難いことだ”
4月23日。息子はすこぶる元気な体でベットに横たわっていた。右ヒザ以外は(見た目では判別できないのだけれど・・・)完璧なU-14のサッカー小僧だ。
午後からの手術の時間が近づいてきた。
母親は全く外傷のない、きれいな、つるっとした右ヒザを丁寧に撫でた。愛情をこめて、とても丁寧に撫でた。父親の私も、心から丁寧に右ヒザを撫でた。
二人は心の中で泣きながら、丁寧に撫でた。
息子は強い足取りで、手術室に消えていった。
彼が手術を終え、我々が待つ病室に帰ってきた時、いくつかは解決していた。
執刀医である主治の先生は、我々の最大の不安を、丁重に肯定した。
息子は麻酔からようやく覚めて、意識がはっきりしない中で、とても辛い結果を、おぼろげに聞き、心の中で受け止めた。
めちゃ、辛かった。
人生の中で、一番辛かった。
眠れないほど辛かった。
息子は、地元の強豪と言われるクラブチームに所属させてもらっている。
息子はそのクラブのセレクションに合格し、ゼッケン47をもらった。
彼は地元の小学校に入学後、すぐに大好きだったサッカーのスポーツ少年団に入団した。ただ、サッカーが好きなだけの小学1年生だった。
そこで、今でも同じクラブに通っているサッカー仲間と出会うことになる。
彼らは“サルフォー”と呼ばれ、一生懸命ボールを追いかけた。
彼らは小学2年生の冬、圧倒的なパフォーマンスを繰り広げ、地元の公式戦を初制覇した。
3年生になってもそのパフォーマンスは益々パワーアップし、勝ち続けた。
圧巻は4年生の時。すべての公式戦を優勝した。中でも山口県U-10キッズフェスティバルに優勝し、山口県の頂点に立った。
5年生になり、初めてトレセンを経験した。残念ながら地区代表にはなれず、涙を流した。その時、車の中で“ゆず”が歌う「栄光の架橋」を聞き、涙を拭き前を向いた。
47番は懸命にプレーし、常にアグレッシブに戦った。
そんな姿がある高名な指導者の目に止まり、市内の選抜チームのメンバーに加えていただいた。
6年生になり、再度、トレセンに挑戦した。今度は、体調を壊し、プレーを断念。トレセンも一旦は諦めた。しかし、なぜだか県トレセンへの“合格通知”が届いた。
更に、市内選抜チームにも参加を許された。
6年生になった彼らは、最大の目標である“全日本少年サッカー大会”の地区予選に挑んだ。本命視されていたにも拘わらず、地区一次予選で敗退した。未だに“なぜ負けたか”が不明である。
彼は常にベストを尽くした。夏の県トレセンでは、そのパフォーマンスが認められ、中国トレセンⅡチャレンジフェスティバルに、山口県代表として参加を許された。
中国5県のトップ選手が終結した大会で、フル出場し、優勝に貢献した。
所属のスポ少と選抜チームと両方で、できる限りのことをした。
小学生として最後に臨んだ大きな大会では、ベスト11に選出され、6年間を締めくくった。
小学校の卒業前、更に高いレベルでのサッカーを目指し、現在のクラブチームへ入団するためセレクションを受け、入団を許された。
入団早々の4月23日、ゴールポストに左手を強打。薬指を骨折した。また、マイナスからのスタートとなった。
ケガが癒え、J-リーグU-13の公式戦が始まり、県内外の強豪チームと戦った。
そしてまた、トレセン活動が始まった。地区トレセンを合格。山口県ジュニアユーストレセンの一次・二次選考会に合格。山口県地区28名の中に名を連ねた。
7月26日の県合同練習会が開催された。いろんなポジションでいろんなプレーを一生懸命に繰り広げた。
8月上旬、ジュニアユース中国地域選抜研修会(俗に言う、中国トレセンのこと)に山口県代表8名の中に選ばれた。
8月23日24日、岡山県倉敷市で開催された、中国トレセンに参加。ミニゲームでは、今までほとんどやったことがない、右サイドを志願し、強烈なシュートを決めた。次にトップ下、そしてサイドバック。どのポジションでもできる限りのパフォーマンスを繰り広げた。
所属クラブチームに朗報が届いた。なんとナショナルトレセンへの選出が内示されたのだ。
その間もチームの活動は続き、J-リーグU-13公式戦11戦目で2桁得点に達した。
11月19日~23日、ナショナルトレセンU-14(後期)が、大分スポーツ公園で開催され、今までで一番高いステージの4泊5日の合宿を経験した。
3年生が引退し、新チームが構成され、トップチームへの合流を許された。
トレーニングマッチを繰り返し、チームの左サイドを任されるようになった。
2月下旬、新チームで臨んだ初めての公式戦。山口県クラブユース新人生に、1年生ながら、全試合先発メンバーとして出場。2日間4試合で3得点3アシストとチームの優勝に貢献した。
準決勝では、PK戦の4番手としてボールを蹴った。
神戸遠征や熊本遠征などで、チームの結束力も高めた。
そして、プログレスリーグを目指して最後のチーム固めをしている最中の3月18日。
近郊の強豪高校とのトレーニングマッチで、“それ”が起こってしまった。
試合中、右ヒザに異変が起こった。屈伸運動をしたら、何とか走れた。しかし、もう一度更に激しい異変が起こった。もう立ち上がることができなかった。
プログレスリーグを目の前にした無念のリタイヤ。これから、試練と戦うことになった。
そして、この復活へのブログがスタートする。