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小塚原刑場跡・浄閑寺・将門の首塚

2010-08-23 06:58:15 | 東京を歩く
夏は怪談?・・という訳で少し因縁話のお寺を巡ってみましたが・・・
お墓ばかりでごめんなさい~ポリポリ (・・*)ゞ


小塚原刑場跡と回向院
寛文7年(1667)以前に浅草聖天町(現台東区)辺りから移転して来たといわれている。
間口60間(約108m)奥行30間余(約54m)約1800坪の敷地だった。
日光街道に面していたが、周囲は草むらだったといわれ、浅草山谷町と千住宿の間の
町並みが途切れている場所にあった。
小塚原の刑場では、大罪・磔(ハリツケ)・獄門などの刑罰が執り行われるだけでなく、
刑死者や行倒れ人等の無縁の死者の埋葬も行われた。
時には刑死者の遺体を用いて刀の試し切りや、腑分け(解剖)が行われた。
又、徳川家の馬が死んだ後の埋葬地として利用されることもあった。
回向院下屋敷(現回向院)はこれらの供養を担っていた。
明治前期には江戸時代以来の刑場としての機能は漸次廃止・停止され、
回向院は顕彰・記念の地となった。
橋本佐内や吉田松陰といった幕末の志士は小伝馬町で処刑されたが
顕彰のため、この回向院に墓がある。
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吉田松陰と橋本佐内の墓         マウスオン2枚です 
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観臓記念碑
杉田玄白や前野良沢らが、ここで腑分けを見学し、オランダ語の
「ターヘルアナトミア」の図があまりにも正確なのに驚いた。
1771年に翻訳に着手して、安永3年8月(1774)「解体新書」5巻を出版。
それから蘭学が盛んになった事を顕彰した碑

吉展地蔵尊           吉展ちゃん誘拐事件   

小塚原の首切地蔵
江戸のお仕置き場(刑場)は品川の鈴ヶ森とここの二ヶ所で
小塚原での刑死者の菩提を弔うために寛保元年(1741)に建立された。
27個の花崗岩を組み合わせた全体の高さ4m近い坐像で、
奥州街道沿いにあったので、江戸に出入りする多くの人が目にしたという


浄閑寺(投込寺)
江戸時代、吉原で死んだ遊女たちは、この浄閑寺に埋葬された。
その数は2万人を超え、死亡平均年齢は21.7歳だったという。
「新吉原総霊塔」は寛政5年(1793)に建立された。
塔の基部には、花又花酔の川柳「生れては苦界、死しては浄閑寺」
が刻まれている。
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「新吉原総霊塔」
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将門の首塚
平安時代末期の天慶の乱(~940)の中心人物、平将門にまつわる伝説の地
昔この辺りは柴崎村といって、神田山日輪寺や神田明神の社があり
傍らに将門の将門の首塚があった。現在ある石塔婆は、徳治2年(1307)に
時宗の真教上人が将門の霊を供養したもの。神田明神を移転する際
「将門の首塚」の祟りを恐れて塚を移すことができなかった。
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20 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
二人sutaさん説…(笑) (ウッテガエシ)
2010-08-23 09:53:15
こんにちは sutaさま

ン、回向院…?確か以前sutaさんと一緒に行ったよねぇー(勿論、sutaさんのブログで…)(笑)。
7月24日の深川散歩①でした。
あそことは違うんですね。
吉展ちゃん事件は覚えています。
戦後最大の誘拐殺人事件といわれていましたね。
犯人は黒澤監督の「天国と地獄」を見て真似したとか…。
吉展ちゃんを供養の為お地蔵さんも出来ていたんですね。

ところで話しは変わりますが、sutaさんて二人いるんじゃないの…(笑)。
大洗海岸から新宿散策、大阪usjそして東京散歩
…。
この暑さの中、一人では絶対無理、無理…(笑)
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ウッテガエシ様 (suta)
2010-08-23 15:08:35
 
7月のは両国の回向院、ここは南千住の回向院です。
両国の回向院の別院で、小塚原の刑死者を供養するために
両国の住職が創建したそうです。
吉展ちゃん事件は本当に辛い事件でしたね
あの時の憤りは絶対忘れてはいけまいと思います。
一人ですよ~
仕事もやめて、家事は娘に任せたので何もやる事がないの
何もしないとボケちゃうでしょう?
新宿は7月末、大洗は8月の始め、10・11日は奥の細道でしょう?
次の日から大阪・京都、帰ってきてから18日に涼しいを求めてここと、
矢切渡しに行きました
隅田川の橋があと2橋なんだけど、行けないでいます。
涼しくなったら
今日は昭和記念公園に鷺草を写し行きたかったんだけど
奥の細道の編集が出来てなくて・・・
早くしないと花が終っちゃう
私はジックリ写すタイプじゃないから
タッタと歩きまわって
一日、ツアーに行くと2・3回の投稿になるから
毎日歩いてるように見えるけど月に3・4回位
あとは首にタオルを巻いてです。

いつもお訪ねいただいて嬉しいコメントを('-'*)アリガト♪ございます 
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こんにちは (鎌ちゃん)
2010-08-23 17:39:37
怪談ということで、思わず引きずり込まれて読ませていただきました。
小塚原刑場跡は、現代医学の進歩のためにも、大きく貢献してきたところなんですね。
吉展ちゃんのお地蔵様でsるのはビックリです。

浄閑寺・・・・遊女達が2万人ですか。悲しい生涯が偲ばれますね。

将門の首塚は、各地にあるようですね。
怨念がそうさせたのでしょうか。

いつもながら、盛りだくさんの内容で、興味深く拝見させていただいております。
一度ではもったいない気もします。
2~3回に分割されたらという気もしますが・・・。
返信する
首塚 (枯雑草)
2010-08-23 19:13:36
こんにちは。
わー、今日は処刑場跡ですか。
夏は怪談・・でもちょっと気味悪い
ですね。sutaさんは度胸がおありになる。
将門の首塚。昔、近くで仕事して
た時があってよくゆきました。
そう、不思議な祟りがあるので、今も
ビルの谷間に残っているのですね。
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こんばんは (ken)
2010-08-23 19:23:18
sutaさんこんばんは。

お寺のお話はゆっくりと回りながら説明を聞くと良く分かるのですが。

ただ見ただけでは分かりませんですね。
ごめんなさい。
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こんばんは (自転車親父)
2010-08-23 22:49:22
こんばんは。
最初の辺りは良く知っています。
前を通りますよ。
それと日比谷線から見えますね。
毎日見ていましたよ。
この辺りはけっこういろいろあって面白い地域です。
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Unknown (サクラびより)
2010-08-24 00:07:04
浄閑寺の死亡平均年齢が21.7歳って、
そんなに若くして!?
2万人という数もすごいですね…
返信する
鎌ちゃん (suta)
2010-08-24 11:33:30
 
今のように裁判制度がきちんとしてなかったので
小塚原刑場で処刑された人の中には無実だった人も沢山いたそうです
その遺体で解剖が行われ、現代医学の基礎になったんですね~
新宿でもそうでしたが、吉原の遊女たちの哀しい一生は
同じ女性として胸が詰まります
戦争の慰安婦にしても、犠牲になるのはいつも女性ですもの
京都でさらされた将門の首が関東を目指して空高く飛び去ったとも伝えられ、
途中で力尽きて地上に落下した所・所に首塚があるそうです。
いずれにしても、数多くの伝説がある将門は英雄ではあるのですね

いつもお訪ねいただいて嬉しいコメントを('-'*)アリガト♪ございます 
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枯雑草さま (suta)
2010-08-24 12:02:06
 
(-_-;ウーン 夜に行ったら、火の玉が出るかも・・
昔はこの一帯は、一面の草むらで、何もない所だったそうですから
う~ら~め~し~や~~の世界だったんでしょうね
昔から、将門の首塚の板碑の後の石塔婆を移転しようとすると
いつも事故が起こるそうで、神田明神が移転する時も
そうだったようです今でも怨念ってあるんでしょうか?

いつもお訪ねいただいてコメントを('-'*)アリガト♪ございます 
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ken様 (suta)
2010-08-24 12:05:53
 
そうですね~
なんでもそうですが、特にこういうのはね~
新吉原総霊塔の中には、お骨が入っているのですが
さすがに覗く事ができませんでした

いつもお訪ねいただいてコメントを('-'*)アリガト♪ございます 
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