自由気ままに、生きてゆきたい!

小さい手、大きい手・・・触れる、握る、拍手する。心が通い、愛が生まれる。みんながいて、私がいる。みんなの中の私!

富士サファリパーク

2009-11-30 02:10:07 | 旅行 風景
9月の終りに家族と、妹一家で富士サファリパークに行って来ました。

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百獣の王ライオンも子供のうちはとてもかわいいですね。



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中山道を往く 二十四   大井 大湫

2009-11-27 07:18:21 | 中山道
中 山 道 (中 仙 道)
東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中の五街道の一つ。
東海道に次ぐ幹線道路で、1602(慶長7)年から整備が始まり、
日本橋を起点に近江国・守山宿までの67宿の街道で、
草津宿で東海道と合流し、京都三条大橋(135里24町8間・約533㌔)に向かった。


69-46 大井宿 日本橋から87里29町(344.5㌔) 人口466人 総家数110軒 本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠屋41軒
西に十三峠を控え、尾張、伊勢へ向う下街道の分岐点でもあり、
旅人や物資の往来で大変賑わった。
旅籠も41軒を数え、美濃16宿の中で最も繁栄した。
宿並みは710㍍で、横町・本町・竪町・茶屋町・橋場の5町を
6つの枡形で区切り、中山道随一の整然とした町割を形成していた。

本陣跡




大井村庄屋古山家
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最後の屏風絵の説明




西行硯水
文治2(1186)年、西行は二度目の奥州の旅に伊勢を出発した。
鎌倉で源頼朝に会い、平泉で一年滞在した後、木曽路を経て、
この地を訪れ、三年間暮らしたといわれる。
歌人である西行は、多くの歌を詠み、こんこんと湧き出る
この泉の水を汲んで墨をすったとつたえられている。


69-47 大湫宿 日本橋から91里11町(358.2㌔) 人口338人 総家数66軒 本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠屋30軒
慶長9(1604)年に、海抜510㍍の高地に設置された宿場である。
東に十三峠、西に琵琶峠の難所を控えていたため、
旅籠屋は30軒を数え、多くの旅人で賑わった。
東に枡形を設けた宿の中心には、神明神社の大杉がそびえ、
格子戸や土塀の古い建物の家並みが続く
文久元()年10月28日、皇女和宮が宿泊している。

「是より東十三峠」の碑








本陣跡にある、皇女和宮の歌碑



神明神社の大杉
神明神社の神木で、推定樹齢1300年・樹高60㍍・幹周り10㍍・直径3.2㍍
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大湫観音堂 
弘化4(1847)年に再建。 絵天井が有名である。


琵琶峠の石畳
美濃16宿で一番高い所にある峠(標高558㍍・長さ1キロ)であり
全長約730㍍の日本一長い石畳が残る。
頂上には、「住み馴れし都路出でてけふいくひ いそぐともつらき東へのたび」
という皇女和宮の碑がある。
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八瀬沢の一里塚
琵琶峠の途中にあり、江戸へ91里・京都へ43里の道標



中山道を往く その二十三   落合 中津川

2009-11-23 15:31:31 | 中山道
中 山 道 (中 仙 道)
東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中の五街道の一つ。
東海道に次ぐ幹線道路で、1602(慶長7)年から整備が始まり、
日本橋を起点に近江国・守山宿までの67宿の街道で、
草津宿で東海道と合流し、京都三条大橋(135里24町8間・約533㌔)に向かった。



69-44 落合宿 日本橋から84里11町(330.9㌔) 人口370人 総家数75軒 本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠屋14軒
信濃との国境に位置する宿場町として発展した。
宿並みは約390㍍で、江戸方入口には枡形がある。
文化元(1804)年と同12(1815)年の2度の大火で大きな打撃を受けた。
東の十曲峠には「落合の石畳」が復元されている。

新茶屋
江戸時代、宿場と宿場の間にある茶屋を「立場茶屋」といった。
かっては、ここから岐阜県側に数百㍍入った場所にあったが、江戸の終りの頃
現在の所に移った。そのために、ここを新茶屋と呼ぶようになった。
ここは、長野と岐阜の県境。


新茶屋の一里塚
新茶屋の西どなりに一里塚がある。
南側の塚が本来の形状を保ち、山の斜面に残る一里塚として貴重である。
「是より北、木曽路」の碑がある。


落合の石畳 (全長840㍍)







本陣跡
現在も井口氏が居住している本陣であった表門は、加賀藩前田家から
火事見舞いとして贈られたものといわれている。
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69-45 中津川宿 日本橋から85里11町(334.8㌔) 人口928人 総家数228軒 本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠屋29軒
江戸時代から商業の中心地として栄えてきた。
宿並みは1100㍍で、宿の中心を四ツ目川が流れている。
宿の中心は本町で、本陣と脇本陣が向かい合い、道の中央には水路があった。
京方筋のは旅籠、馬宿、茶屋などがあり、江戸方には商家などがあった。
文久元年10月29日、皇女和宮が宿泊している。


中津川村庄屋跡・曽我家(現在も居住している)



すわや  江戸時代からあるお菓子屋さん


桂小五郎隠れ家跡 (料亭・やけ山)
長州藩士桂小五郎は、文久2(1862)年6月、江戸から京に向っていた
藩主・毛利敬親に「公武合体」ではなく、「尊皇攘夷」を唱えるべきと
説くため待ち受けていた場所であり、この「中津川会議」は、
維新前夜の激動を知る大切な会議であった。

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卯 建
隣家からの類焼をさけるために作られた防火壁で、隣家との境に高い壁を設け、
その上端に小屋根を置いた。
卯建を作るには家一軒分もの費用がかかった事から、裕福な家の証でもあり、
「うだつがあがらない」という言葉はここから来ている。




甚平坂




広重の碑
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長興寺
西行法師葬送の地
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三溪園

2009-11-20 19:17:53 | 旅行 風景
三溪園 (横浜の東南部の本牧にある)
生糸貿易で財を成した実業家・原三溪が、明治39年、自邸を
公開した事に始まる日本庭園。
広さ約53,000坪(175,000㎡)の庭園には、三溪が京都や
鎌倉などから集めた、17棟の歴史的建造物(うち10棟は
国指定重要文化財、3棟は横浜市指定有形文化財)が
散りばめられ、四季折々の自然と調和を見せている。

旧燈明寺三重塔



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上海横浜友誼園


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三溪園の菊まつり










  

  

                     三溪園・交通案内


                             三溪園と原三溪



中山道を往く 二十二   馬籠  

2009-11-17 08:38:34 | 中山道
中 山 道 (中 仙 道)
東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中の五街道の一つ。
東海道に次ぐ幹線道路で、1602(慶長7)年から整備が始まり、
日本橋を起点に近江国・守山宿までの67宿の街道で、
草津宿で東海道と合流し、京都三条大橋(135里24町8間・約533㌔)に向かった。


69-43 馬籠宿 日本橋から83里5町(326.7㌔) 人口717人 総家数69軒 本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠屋18軒
木曽十一宿のうちで最も南に位置する宿場である。
東に恵那山を望みながら、南西の美濃平野に向かって下る坂道沿いの集落である。
昔ながらの枡形と、復元された家並みや水車などが宿場風情を醸し出している。


馬籠峠
標高801㍍の馬籠峠が妻籠宿と馬籠宿との境界となる。
明治24年に峠越えをした正岡子規の「白雲や青葉若葉の三十里」の句碑が
道標を兼ねて建っている。
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恵那山


右中山道・左山道



non_nonさんのソースをお借りしました

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宿場の入口


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                                    京都三条大橋まで残る52里19町8間


中山道を往く 二十一    妻籠

2009-11-11 16:35:47 | 中山道
中 山 道 (中 仙 道)
東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中の五街道の一つ。
東海道に次ぐ幹線道路で、1602(慶長7)年から整備が始まり、
日本橋を起点に近江国・守山宿までの67宿の街道で、
草津宿で東海道と合流し、京都三条大橋(135里24町8間・約533㌔)に向かった。


69-42 妻籠宿 日本橋から81里5町(318.3㌔) 人口418人 総家数83軒 本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠屋31軒
慶長6(1601)年に設置された。
元和6(1620)年まで口留番所が置かれ、旅人や物資を取り締まった。
光徳寺の門前町としても発展し、名物に銘酒「諸白」があり、桧笠の生産も盛んであった。
明治以降衰退していたが、全国で初めて歴史的町並み保存をした宿場町である。
約800㍍の宿並みの両側に「脇本陣奥谷」と妻籠宿本陣」がある。


本 陣 跡
島村藤村の母の生家で、島村氏が本陣・庄屋を兼ね勤めていた。
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脇本陣
代々林家が脇本陣・問屋を勤めており、島村藤村の初恋の「ゆさ」の嫁ぎ先でもある。

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15枚です。クリックして下さい  します。 non_nonさんのソースをお借りしました


<<高札場付近


子安観音と枝垂桜
昔からこの付近に住むものは難産しないと云われ、信仰の対象として祀られている。



中山道と男滝・女滝
芳川英治の「宮本武蔵」の武蔵とお通のロマンスの舞台となった。
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中山道を往く その二十  野尻・三留野宿

2009-11-09 14:45:17 | 中山道
中 山 道 (中 仙 道)
東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中の五街道の一つ。
東海道に次ぐ幹線道路で、1602(慶長7)年から整備が始まり、
日本橋を起点に近江国・守山宿までの67宿の街道で、
草津宿で東海道と合流し、京都三条大橋(135里24町8間・約533㌔)に向かった。


69-40 野尻宿 日本橋から77里5町(302.6㌔) 人口986人 総家数108軒 本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠屋19軒
木曽川の左岸段丘上に形成された集落で、上町、本町、横町、荒田(新田)からなり、
上町と新田の端に「はずれ」という屋号を持つ家がある。本町・横町を鍋底にして、
江戸方の上町と京方の新田に向って坂道となり曲がりくねっている。
これを「野尻の七曲がり」といい、他の宿場に見られる「枡形」に代わるものである。
かっては桧の産地として栄えたが、火災が重なり昔の面影は少ない。


七曲がり
他の宿場に見られる枡形に代わるもので、外敵を防ぐ曲がりくねった町並


鮎沢家本陣跡
明治14(1881)年7月10日の大火災で焼失した
(家屋74軒、土蔵8軒全焼)


脇本陣跡


旗挙八幡宮
幼名を駒王丸と名付けられ、養父・中原兼遠に育てられた義仲公は、
この辺りの平地に城をかまえ、八幡宮を祭った。十三にして元服。
木曽次郎源義仲」と改め、治承4(1180)年、1千余騎を従え、
ここに平家打倒の旗挙げをした。時に二十七歳であった。
以後ここを旗挙八幡宮と呼ぶ。
社殿傍の大欅は、当時からのもので、落雷により傷ついたその姿は、
悲劇の武将を語っているかのようである。






等覚寺
江戸時代初期の僧・円空の韋駄天像・弁財天十五童子像・天神像の
三体の円空仏が安置されている。
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69-41 三留野宿 日本橋から79里23町(312.4㌔) 人口594人 総家数77軒 本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠屋32軒
野尻から三留野の間は、木曽川沿いに岩壁が迫っており、木曽路で一番の難所であった。
岩壁に桟を掛け、わずかな道が開かれていたという。
三留野宿は、危険な桟を渡り終え、無事にたどり着いた人達で大変賑わった。
ここも度重なる火災によって家屋が焼失し、昔の面影はない。


本陣跡
文久元(1861)年11月1日、皇女和宮が宿泊している。





巴御前袖振りの松
義仲が弓を引くのに邪魔になるというので
巴御前が袖を振って、なぎ払ったと伝えられている。
1枚目 今年の6月、松くい虫の被害により伐採され
2枚目 その松で長さ7㍍の水舟を作り、巴御前の勇ましさを偲ぶ
3枚目 義仲が座ったと伝えられている腰掛石
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かぶと観音
木曽義仲が北陸路に出撃しようとした時、
兜の八幡座の観音像を祀ったのが始まりという。
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中山道を往く 十九  須原

2009-11-05 17:10:39 | 中山道
中 山 道 (中 仙 道)
東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中の五街道の一つ。
東海道に次ぐ幹線道路で、1602(慶長7)年から整備が始まり、
日本橋を起点に近江国・守山宿までの67宿の街道で、
草津宿で東海道と合流し、京都三条大橋(135里24町8間・約533㌔)に向かった。



69-39 須原宿 日本橋から72里35町(291.6㌔) 人口748人 総家数104軒 本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠屋24軒
もとの宿場が洪水で流失したため、正徳5(1715)年に現在地に移転した。
移転の際、宿割りが計画的に行われたため、宿場の特徴がよく残されたいる。
道幅が5間(4.5㍍)と広く、道沿いには用水路や水舟(水場)が設けられている。
宿の入口が鍵形に曲がっていて、宿内道路中央が「く」の字形に屈折している。


本陣跡


脇本陣 西尾家後
問屋と庄屋を兼ねていた脇本陣
 

西尾家の末孫が現在、銘酒「木曽のかけはし」」を酒造している。


宿の至る所に、水舟(水場)がある。



浄戒山定勝禅寺
 
 

宿の西はずれにある伊奈川の橋の上から、木曽の清水寺と言われた懸崖造りの「岩出観音堂」が見られる。
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