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加工の練習

2012-05-27 16:44:53 | 加 工

あまりいい出来具合ではありませんが・・

なんとか出来ました、有難うございます。

 

 

 

 

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2010-11-11 09:21:52 | その他



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東京街歩き・・駒込   染井吉野の里

2010-11-08 01:07:25 | 東京を歩く
染井吉野の里
東京で代表的な桜といえば、 ソメイヨシノ(染井吉野)。
発祥地は、江戸染井村。(現在の豊島区駒込)
ソメイヨシノは、オオシマザクラとエドヒガンの交配種と言われており
幕末に誕生した後、明治時代には吉野山の山桜との混同を避けるため
染井吉野という名がついた。

專修院






染井稲荷神社
この辺りは昔、染井村といい、350年前にその名を刻んだ石像がある事から
それ以前からある地名と思われる。染井稲荷が建てられたのもおよそ300年以上前で、
関東大震災や戦災にも拝殿・本殿ともに燃えず「火防の神」として信仰を集めた。
この社には神体が二体あり、保食命の像と320年前の十一面観音の石像が安置されている。


西福寺  (染井吉野の里)
創建の年代は明らかでないが、駒込に江戸時代から存在した寺。
この寺は、江戸時代、大名・藤堂家の下屋敷に近く、家中の祈願寺となり
その規模が非常に広大であったといわれているが、明治維新後に縮小された。
染井の植木屋の菩提寺として有名で、八代将軍・徳川吉宗に気に入られ、
江戸城内の庭師も勤めていた植木屋・伊藤家の四代目・伊兵衛政武の墓があり、
貴重な園芸書「地錦抄(チキンショウ)が保管されている。
山門右手には、区内最古の六地蔵がある。








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東京街歩き・・巣鴨

2010-11-05 08:40:16 | 東京を歩く

真性寺
開基は不明だが、元和元年(1615)に中興された。
享保年間(1716~36)に地蔵坊正元の発願で、江戸の諸街道筋に設けられた
江戸六地蔵の第四番目。他にも御府内八十八箇所、九品仏、三十箇所弁財天にも
数えられ、真性寺への巡礼が巣鴨の発展の基になったといわれる。
境内に鎮座する江戸六地蔵尊は、今から約290年前に建立された。




本妙寺
山号を徳栄山と称し、徳川将軍家とのゆかりの深さを示している。
開山は、元亀2年(1572)現在の静岡県浜松市であったが、家康が
江戸城へ移った天正18年(1590)江戸城内に置かれ、その後
幾度か場所を移り、明治43年(1910)現在の巣鴨に落ち着いた。
境内には「明暦の大火(振袖火事)供養塔」がある。
又、囲碁の家元である本因坊家、将棋名人・天野宗歩の墓、剣豪・千葉周作
「遠山の金さん」のモデルとなった、遠山影元金四郎の墓がある。
マウスオン・クリック、3枚です 
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「明暦の大火」の供養塔


将棋名人・天野宗歩の墓


本因坊家歴代の墓


マウスオン2枚です 
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慈眼寺
慶長20年(1615)深川に創建され、大正11年(1912)に現在の地に移転
江戸時代の画家・司馬江漢、芥川龍之介、谷崎潤一郎の墓がある。




芥川龍之介の墓


北島浩介が所属しているスイミングクラブ

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東京街歩き・・駒込~巣鴨

2010-11-02 09:52:02 | 東京を歩く
六義園
元禄8年(1695)五代将軍・徳川綱吉から柳沢吉保が下屋敷として与えられた
駒込の地に吉保自ら設計、指揮し、平坦な武蔵野の一隅に池を掘り
山を築き、7年の歳月をかけて「回遊式築山泉水庭園」を造り上げた。
吉保の文学的造詣の深さを反映した繊細で温和な日本庭園。
庭園の名称は、中国の古い漢詩集である「毛詩」の「詩の六義」
すなわち風・賦・比・興・雅・頌という分類法を、紀貫之が転用した
和歌の「六体」(そえ歌、かぞえ歌、なぞらえ歌、たとえ歌、
ただごと歌、いわい歌)に由来する。
庭園は中ノ島を有する大泉水を樹林が囲み紀州、和歌の浦の景勝や
和歌に詠まれた名勝の景観が八十八境として映し出されている。
明治に入り、岩崎弥太郎の所有となり、昭和13年に東京市に寄付されて
一般公開された。造園当時から小石川後楽園とともに江戸の二大庭園に数えられている。
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六義園
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non_nonさんのブログの小技からお借りしました。


大和郷(ヤマトムラ)
本駒込六丁目の白山通りと六義園の間の一帯をいう。戦前から由緒正しき高級住宅地。
江戸時代は加賀藩前田家の中屋敷(上屋敷は現在の東大本郷キャンパス)だった所。
明治維新後、隣接の六義園(江戸時代は大和郡山藩主・柳沢氏の藩邸)ともども
三菱財閥の岩崎弥太郎の所有となった。岩崎家はこの一帯に広大な土地を持っていて、
その名残りとしてJR巣鴨駅を挟んだ北側に三菱グループの施設や社宅が建っている。
大正時代になると下町に木造家屋が密集した東京の劣悪な住環境が社会問題となり
(その弊害は関東大震災で露わになった。)華族が所有していた広大な土地を
市民に解放しようという運動が華族の間からも起こった。渋谷区の松涛や
文京区の西片などは、この時代に旧大名家が自身の所有地を、住宅地として
分譲したした代表的な例。岩崎家も久弥(弥太郎の長男)が六義園西側の土地を
市民に解放する事を決め、設計を建築界の重鎮・東大教授の佐野利器に委ねた。
佐野は、持論であった田園都市理論を具体化すべく熱意をもって設計にあたり
岩崎も惜しみなく彼を支援した。大正11年から分譲を開始したこの新しい住宅地は
「大和郷」と名づけられた。名前の由来は、隣接する六義園がもと大和郷山藩(奈良県)の
藩邸だったことによるが、日本(大和)の住宅地の範となる理想郷を造るという気概も
こめられていた。郷内には、当時気鋭の建築家が設計した邸宅が並び、
たちまち都内屈指の住宅地と目された。今では表通りには、高層マンションが建ち、
土地は細分化されて事務所ビルやアパートも建ち、某宗教団体の施設が建ったりして、
雑然とした街並みになったが、現在でも「大和郷」のブランドは健在で、地価は周囲よりも高い。


第15代将軍・徳川家慶喜(1837~1913)は、水戸徳川藩主斉明の子として
江戸上屋敷(現在の後楽園)で生まれ、一橋家の家督を継ぎ
慶応2年(1866)将軍に就任した。翌年、大政を奉還したが、鳥羽伏見の戦いと
それに続く江戸開府の後、恭順の意を表し、水戸にて謹慎の後、駿府に隠棲した。
明治30年東京に戻り、同34年にこの地に移り住み、もっぱら趣味の世界に生きたという。

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