太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

観音寺と太鼓台文化・第2弾‥金縄(注連縄)について

2022年12月27日 | 研究

金縄の綯(な)い方、2形態

観音寺琴弾八幡奉納太鼓台の四本柱の周り上部には、四分割された金糸の豪華な装飾縄(注連縄に相当する。この装飾縄を〝金縄または金綱〟と呼んでいる)が飾られている。琴弾八幡のある旧・観音寺町の太鼓台では、この金縄の捩(ねじ)れの向きが「他の地方の太鼓台の捩れの向きと逆になっている」とのご意見をいただいた。改めて全国規模で太鼓台の状況(各地の太鼓台の中には全く注連縄等のない太鼓台も数多くある)を注意深く眺めると、確かに琴弾八幡に奉納されている太鼓台の金縄は他の地方の太鼓台とは異なり、綱の捩れが逆向きになっている。

(2022祭礼ポスター。現在の太鼓台のうち、7号・上市太鼓台のみが神社等の注連縄と同じ捩れとなっている)

ポスターにある9太鼓台では、7号・上市太鼓台だけが他の8台とは捩れが逆の向きとなっている。しかし上市・先代の太鼓台では、昭和末年代まで殿(しんがり、観音寺では長らく7台が奉納していた)を勤めていた下記冒頭の写真では、綱の捩れは他の6台(中洲・本若・酒・上若・坂本・南)と同じであることが確認できているので、「観音寺太鼓台の金縄は他の地方とは捩れが逆向き」というのは、ほゞ的を得ていると言ってよい。現在では、上市を除き8台全てが下記例示の二つの注連縄と捩れが逆である。神社等の注連縄が「左綯(ひだり・な)い」であるのに対し、観音寺の太鼓台では上市太鼓台を除き、作業時の縛る縄と同じ「右綯(みぎ・な)い」の作りである。

これは一体どういうことなのだろうか? 神社に奉納される神聖な奉納物である太鼓台の金縄が、神聖さのシンボルとも言える左綯いではなく、なぜ、ごく一般的な縛る縄と同じ右綯いなのか。このことに関しては、一定の客観的で納得できる理解が必要だと思う。

 

左から、戦前の上市太鼓台の金縄は現在の8太鼓台と同じ捩れ〝右綯え〟となっている。三重県熊野市よいや(太鼓台=左綯え)、淡路島沼島のだんじり(=左綯え)、出雲大社の注連縄(向かって左が太く右が細い、入り船型)、ごく一般的な出船型の注連縄(右が太く、左が細い) ‥ 入り船型・出船型の注連縄も、捩れる方向は同じ〝左綯えとなっている。最後は4号・上若太鼓台の〝右綯い〟金縄。

太鼓台には〝注連縄や金縄が飾られているものもあり、そうでないものもある〟というのが文化圏での実態である。尤も、太鼓台に金縄(豪華な注連縄)を張り巡らすことは、一般論として、大型・豪華な太鼓台では装飾華美に流れることがごく当たり前であることから、各地の太鼓台でも多々見られている。もちろん太鼓台の場合以外でも、注連縄で仕切られた内部が神聖とされている民俗学の観点からは、太鼓台にも同様な神聖さを醸し出そうと意識されていることから、各地のさまざまな太鼓台に注連縄や金縄の装飾が為されているのもうなづける。しかし、注連縄ありきでも金縄不要ということでものない。例えば、最も豪華に発達した部類の新居浜の太鼓台の場合でも、金縄が飾られていない。

縄の種類と注連縄について

先ずは、縄の種類(綯い方・撚り方及び出来上がり状態)と太鼓台・金縄のルーツである注連縄について理解しておきたい。元々、注連縄は稲藁を柔らかくして綯(な)ったものを言うが、神仏用として用いる注連縄と、荷造りなどの作業で使う縄とでは、綯い方や出来上がりの捩れ外観が異なっている。注連縄では〝\ \ \〟と左上から捩れるのに対し、作業縄では〝/ / / 〟と右上からとなる。これを前者は「左綯(な)い」と言い、後者は「右綯(な)い」と言う。民俗学では聖と俗との境界に張り、神聖さを意識さす注連縄では〝左綯い〟を用いることを専らとしている。にも関わらず、観音寺では神聖の極致とも言うべき神社奉納の太鼓台の金縄は〝右綯い〟となっている。更に右綯いの金縄は観音寺に限ったことでは無く、香川県中西讃の多くの地方でも多々見られている。このように、荷造り梱包などで使用する右綯いの縄の形式を、聖と俗とを隔てる左綯いの注連縄(金縄)であるべきを、観音寺近郊の太鼓台では、〝/ / / 〟の作業用縄形式の右綯いの金縄(注連縄)となっている。

一般的な注連縄を飾り付ける方法には、上掲写真のように、入り船型(綯い始めの太い先端が向かって右側、終りは左側となる。入り船型では右が上位となる。入り船型は出雲大社や伊勢神宮の注連縄)と、出船型(入船型とは逆向きで、左が上位・右が下位。一般の神社の注連縄の飾り方)がある。この入り船型と出船型とでは、綯い始めと綯い終わりを左右逆にしても、縄の捩れる向きは変わらない。従って琴弾八幡奉納の太鼓台の金縄の捩れ(//)が、神社等で使用されている注連縄の捩れ(\ \)とは異なるものとなっている。捩れる向きから見れば観音寺の太鼓台の金縄は右綯いであり、各地と比較しても特異と言える。 (上述したように先代の上市太鼓台も右綯い金縄の太鼓台であった)

視点を変えて他地方の太鼓台を眺めてみると、そのほとんどが左綯いのオーソドックスな捩れ(\ \)となっている。縄の頭とが逆転しても捩れの向きは変わらないため、観音寺では他地方の太鼓台と捩れの外観がほぼ真逆になる。「なぜ右綯いの金縄を採用することになったのか」は、興味深いところではある。ただ、注連縄の入り船・出船型の飾る左右の向きについては、各地方の神社やそれぞれの家の飾る流儀があり、その左右の向きには必ずしも「これが正解」というものは無いとも言われている。

そうなると太鼓台に飾る金縄についても、それぞれ「左綯い・右綯い」があっても不思議ではないとも考えられ、また各地に散らばる祖型的で素朴な太鼓台には元々注連縄などが飾られていないものが殆どだったことを考えると、さほど目くじらを立てて追及する必要も無いようにも思う。ただ巷間語られていることは〝左綯いの縄は葬式をイメージし、祭りのハレの際には適さないめ、意識して右綯いにしたのではないかと理解している人たちもいる。良し悪しは別にして、恐らくはその程度の理由によって、捩れが反対となる綯い方の金縄となったのではなかろうか。

金縄の文献等への登場と、刺繍受注の寡占

実は、この地方での金縄の登場は、幕末まで遡ることが判明している。〝ちょうさ太鼓がこの地方に登場したのは寛政元年(1879)と言われており、それは大野原八幡へ奉納した〝小山〟地区のものであった。小山は、大野原開墾時に畿内の小山村から移住してきた人たちが形成した集落であると言う。場所的には、今の大野原町辻地区から大野原中学校、大野原八幡、慈雲寺(平田家の菩提寺)、元の平田屋敷(今はない)辺りを総称し、江戸中期以降は大野原平田氏の町人請負新田の中心地であった。

この小山太鼓台地区の後継太鼓台であるかも知れぬ太鼓台の一つに、大野原八幡に奉納する下木屋太鼓台がある。太鼓台を格納する集会場が平田氏の屋敷の前にある。(豪勢な屋敷は今はない)ここには嘉永2年(1849)から続く太鼓台関係の古文書が伝えられている。その中には、角綱(金縄と同じ)・金綱(同)・掛蒲団・とんぼ・太鼓などの記載が見え、それらを、祭礼日の異なっている近郷の太鼓台地区に〝損料〟を付けて貸し出している。(一部には逆に借用している場合もある)それが明治半ばまで続いている。

観音寺でも、琴弾八幡奉納順3号の酒太鼓台が弘化2年に大坂で金綱(金縄)を拵えた際の保管箱の蓋と現物と思われる金縄が遺されている。現物確認では、金綱はやはり右綯いのものであった。(但し保管箱の年代と中に納められていた金綱とは、必ずしも同年代のものとは限らないので、とりあえずは参考としなければならない) 仮に制作年が幕末まで遡るとすれば、右綯いの金綱は、相当に以前から採用されていたことになる。

もう一つの特徴として、観音寺近郊の右綯いの金綱は、松里庵・髙木工房(明治中頃に琴平から観音寺へ工房移転している)で制作された古刺繍をまとう太鼓台に多い。このことは、この地方の明治中期頃までの太鼓台刺繍の受注が松里庵一カ所の工房への寡占があったため、右綯いの金綱が際立つ理由になっているかも知れない。

(終)


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