太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

各地の「絵画史料」に描かれた太鼓台(再編集)

2024年06月19日 | 研究

絢爛豪華で高価過ぎる太鼓台が幅を利かす昨今、過去の太鼓台はどのような姿をしていたのでしょうか? 自分達の原風景に出会えるようで、この文化に携わっている誰しもが見たい・知りたいことではないでしょうか。勿論、それら全てを網羅することはできませんが、皆さんのご協力もいただいて、〝太鼓台の原風景〟を一緒に共有できればと考えています。(なお、画像は基本的には年代順〝古い時代→近い時代〟としていますが、関連性の高いものについては、続けて載せるなどの相応の配慮をしています。また、画像の著作権に対しても失礼のないように心がけています)

◆大坂 難波神社(寛政10年1798『摂津名所図会』で紹介)

蒲団部の模様(雨龍の刺繍に見える)と太鼓打ちの乗子の所作(隣り合う投げ頭巾の二人がブチを振り上げ・打ち降ろし)にも注目。右端の肩車の乗子にも注目。

◆小豆島池田 亀山八幡宮奉納絵馬・部分(文化9年1812奉納、安政5年1858に「再画」表示) 絵馬には5台の太鼓台が見える。右端の1台は〝かえし〟の妙技を披露中。左の神輿の大きさ比べると、その差は余りないように見える。

◆加古川市 神吉八幡神社 御神事絵図・部分(文政3年1820 姫路・粕谷宗関氏提供) 井桁に舁棒を組んでいる。このように組む地方もかなりある。

 ◆長崎くんち・樺島町コツコデショ (文政10年1827頃 シーボルト編纂『日本』にて紹介) 現在と比べると、蒲団が2畳少なく、舁棒も脇棒がない。(左の『日本』に載っている銅版画は、シーボルトのお抱え絵師・川原慶賀が描いた肉筆画を、製本する際に銅版画に写したものと言われている。従って慶賀が描いた絵がどこかにあるはずとして、長崎の研究者はその絵を探索しているとのこと。もし写実的な肉筆画が発見されたら、更により精細な当時の様子が判明するはず)

 

◆西条市 「伊曾乃祭礼細見図」の「みこし」 (天保6年1835頃 『西条祭祭礼絵巻』2012刊所収) 蒲団〆や幕や高欄掛に刺繍が見える。

◆堺市 三村宮祭礼絵馬 (天保期1830-43『堺市史』第三巻所収)  後方左端に蒲団型が見える。

◆大崎下島沖友の奉納絵馬・全景と部分 (天保13年1842)  大崎下島の他地区では、夜に蒲団を降ろして担ぐ地区がある。

◆たつの市 梛八幡神社奉納絵馬・部分 (弘化2年1845 姫路・粕谷宗関氏提供) 現在の屋台に比べると、かなり小さく見える。

◆姫路市 林田八幡奉納絵馬・部分 (嘉永元年1848) 平らな3畳の蒲団を積む。規模はかなり小さいと思う。右は、同神社の明治14年(1881)の絵馬。神輿型と蒲団型の太鼓台。(天部はこんもり膨らんでいる)  

◆宇和島市 宇和津彦神社祭礼絵巻・部分 (大正9年1920に、その6~70年前の様子を描く)

◆今治市 大浜八幡神社奉納絵馬・部分 (嘉永5年1852)

◆大阪市平野区 杭全神社「平野郷牛頭天皇祭礼図」部分 (嘉永6年1853) 舁棒の備わっていない太鼓台。(関西大学・大阪都市遺産研究センター提供)

◆燧灘・伊吹島の新調見積り時の粗図面 (安政年間1856年頃) 大坂直結の太鼓台で、当時の太鼓台の規模が想像できる。

◆加古川市 厄除八幡神社奉納絵馬・部分 (安政5年1858 姫路・粕谷宗関氏提供)

◆今治市波止浜 龍神社祭礼奉納絵馬・部分 (慶応3年1867)  この太鼓台も舁棒が見当たらない。

(終)


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