雨男チェンさんの備忘ログ(そんなに言うほど雨降らないよ)

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武術の稽古でぶち当たる壁

2017年06月06日 17時32分01秒 | 武術?
武術の稽古をしていると少なからずぶつかる『壁』があります。

その中の一つが『集団』というものにありがちな仲間意識やカルト宗教的な思想、思考です。

『武術』を学ぶために特定の団体に所属し、稽古しているはずなのに、いつの間にか『武術』としての正しさよりも『習い事』としての正しさに目を奪われ、思考を奪われ、自由を奪われる。
そんな経験をした人は多いのでは無いでしょうか。

私もそういった経験から嫌な思いをたくさんしてきた被害者の1人と言っても過言ではない、と言えるかと思います。



『習い事としての正しさ』は『集団練習の正しさ』とは異なります。

『習い事としての正しさ』とは『系譜問題』に帰属する事が多く、重要視されるのが『私は〇〇先生から教わった』『〇〇先生はアノ〇〇大先生に認められた正当弟子』というような『武術』としては基本的に価値の無い『見栄』の様なものです。

『武術』としての価値はそんなところには無いわけで、暖簾分けで道場を開いても技、理論ともに箸にも棒にもかからない人達が山ほどいる事は皆さんもご存知かと思います。

そして『習い事としての正しさ』を行使する人間に心、そして志を折られてしまい本当なら素晴らしい武術家になる資質を持っているにもかかわらず道半ばで諦めてしまった方々を多数知っています。

これらは『習い事としての正しさ』を良しとする指導者の罪であり、またそこに腰巾着の様にまとわりつき指導者の目を曇らせる『太鼓持ち弟子』の罪です。

指導する立場の人間はこういった人間に踊らされている事に気付く義務がありますが、そもそもが指導者自身が『習い事としての正しさ』を重要視しているのであれば師として人の前に立つべきではありません。

指導者も指導することで得る収入に生活が掛かっているかもしれませんが『習い事としての正しさ』と『武術としての正しさ』をうまく使い分け、『弟子』と『生徒』は分けて考える事が出来る様になってください。

30分しか教えなくても弟子は弟子。
30年教えても生徒は生徒。
弟子と生徒は明確に分けましょう。


習う側も全員に対して『弟子』と表現する先生には注意しましょう。

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