昨日、第一巻を購入して、中盤くらいからボロボロ涙が止まらない状態で読み終えてから、このマンガから伝わってくる ”想い” をどう表現したらいいのか、ずっと考えあぐねていましたσ(^_^;)
「CICADA シカーダ」1巻 原作:山田玲司 作画:バナーイ(月刊スピリッツ連載中)
*ほぼバレ無し、の感想を書いたつもりですが気になる方は読まれない方が吉
時折、マンガ喫茶やらレンタルやらでまとめ読みなんぞをしたりもしますが、雑誌も入れれば大体毎月2~30冊くらいを買って読んでるオレは果たして ”マンガ好き” としてはどんなレベルなんだろう?と、ふと思うことがあります
別に ”量” を読んでれば偉いワケでも何でもないですし、どれくらい好きかの尺度を他者と比較するのも不可能なので意味が無い疑問だとは思いますが、マンガを読むという事はオレにとっての ”もう一つの人生” であって、自分自身が普段から寝て起きて仕事行ってご飯食べて~っていう一連の生活の中で抱く喜びや怒りや哀しみや楽しみから完全に切り離されて、全く別種の、そして遙かに ”強烈” な喜びや怒りや哀しみや楽しみを感じられる行為に他なりません
他にも映画やアニメやドラマを見たり、グルメだったり身体を動かしたりする事なんかも大好きではありますが、オレの中での重要度といいますか、思春期以降のオレの人生の ”精神” に占める割合が他を圧倒し続けているのがマンガなんです
酒もタバコもギャンブルもやらないオレみたいな人間にとっては ”現実逃避” 的な側面があるのを否定はしませんし出来ませんが(-_-;)、古今東西、森羅万象をその ”表現” の対象とし、読者も少年少女青年成年熟年老年の何でも来い状態な媒体な上に経済的にも(他の一般的な趣味と比較して)優しいなんて、今風に言えば ”コスパ最強” な娯楽だというのは間違いないと思われます(論は分かれるでしょうけど、個人的な経験からしてマンガを読むことで実用的な知識も膨大に得られて来たと確信する次第です)
…と長々と前置きした事でオレが如何に ”漫画無しでは生きていけない” とガチで思ってる変人である事が十分に伝わってくれたと思いますがw、「CICADA シカーダ」は ”マンガを読む自由を奪われた世界” を舞台にしてるマンガなものですから心穏やかでいられるハズがありません
いわゆる ”ディストピアSF” というジャンルで、100年以上先の日本は国土の大半が海中に没していて、荒廃しきった都市部で人間は階級格差によって明確に区別(差別)され、思想統制の一環でマンガという存在をこの世から抹殺しようと政府によって専門機関までが創設されているという設定で、主人公はその機関に所属しつつも、とある一冊のマンガと出会うことで大きく運命が変わることになります
ズバリ焚書をテーマにした映画「華氏451」(とそのリメイク版「リベリオン」)を想起させる設定と展開ですが、オレの場合は最近、劇場で見たばかりの遠藤周作の「沈黙」が真っ先に思い浮かびました
「沈黙」はいわゆる ”隠れキリシタン” たちが過酷な弾圧の元で如何に ”信仰” を保ち続けたかという重厚な内容で、オレも非常に見応えがあったとか当たり障りの無い感想を書きましたが、まともな宗教観も関連知識も無いオレは本質的な部分を全くと言っていいほど ”実感” してなかったんだなと(所詮他人事としてしか捉えてなかったと)「シカーダ」を読んで思い知らされた気分でした(゚д゚;)
そうか、オレにとってのマンガって ”信仰” も同然だったのか
マンガによってオレは ”救われて” いたのか
オレ自身、自らの人生が特段、不幸であった自覚は一切無く、総合的にはむしろ相当な幸運に恵まれた ”幸せ” な人生だったなと思ってるくらいなんですが、それでも人が生きていく上で否が応でも感じざるを得ない、”寂しさ” や ”空しさ” といった負の感情から完全に逃れきることは出来るハズもなく、そういった部分に(無意識的に) ”救い” を求めているからこそ、オレはマンガを(過度に?)必要としてしまっているんじゃないかとまで思い至ってしまって、もうどうしたものやら…
今もしマンガを読むことを一切禁じられたら(=棄教させられたら)、果たしてオレの精神はどうなっちゃうんだろう…?
「シカーダ」作中にはオレなんかの ”同類” が多数登場し、「うる星やつら」「最終兵器彼女」「ベルサイユのばら」といった現代のオレらからしたら ”あって当たり前” のマンガの単行本を文字通り ”火あぶり” になってまでも弾圧から守り抜こうと抗い続ける様に、どうすりゃこの展開を涙無しに読めましょうか…(ノД`)
今作の主人公が初めて触れるマンガである「うる星やつら」を読むシーン
オレが記憶してる限り、生まれて初めてマンガを読んだのは幼稚園の頃で、そのまま小学校、中学校と成長するに従い、少年マンガや少女マンガを中心に図書室で読んだりクラスで普通に貸し借りをしながら楽しんでいたんですが、中二の頃にとある作品に出会ったことでオレのマンガに対する価値観が激変した経験があったのを改めて思い出させられました
ぶっちゃけ、今に至るも引きずり続ける ”オタクな人生” の原初的な経験だったワケですが(まさに中二病w)、
”マンガってこんなにオレの感情を揺さぶることが出来るのか”
”こんなにも夢中にさせる力があるのか”
と当時この言葉通りに実感したワケでは無いと思いますが、(他を切り詰めてでも)”マンガを買い集める” 行為を正当化wし始めた ”始まりの作品” であったとオレの中で確信として存在しています
その作品のタイトルについては「シカーダ」とは関係がないので挙げませんが、誰しもが(マンガに限らず)自分の ”最も深い部分” に影響を与えた作品なり何なりが人生のどこかのタイミングであって、その後の人生をある意味決定づけたりしてるんだと思うんですよ
”救い” という言葉がちょっと宗教じみてて反発を覚えるというのなら、”心の拠り所” でも ”支え” でも ”大切なモノ” でもいいです
目の前でそれらが奪われる、奪われたとしたらどうする?
そりゃ正解は、”戦う” だ!
”紙と鉛筆さえあればいい” と、かの手塚治虫は繰り返し語っていたといいます
「CICADA シカーダ」はマンガを愛するすべての人に向けて描かれているある種の ”挑戦状” としての想いが込められてると思いますので、その愛の多寡に関わらず、自覚のある人wは是非とも読んでみて下さい!
「シカーダ」の物語はまだ始まったばかりですが、既にクライマックスと思われるシーンが冒頭で描写されてもいますので、そこから想像される今後の展開やシカーダの能力と名称の意味を考えると、”抗えない哀しさ” だけでなく、”溢れんばかりの希望” も間違いなく物語に込められてると感じられますので続刊を刮目して待ちたいと思います!!
p.s.
原作者である山田玲司先生がニコ生で、「シカーダ」を「沈黙」と併せて語っているとのことでこれから見ようと思います……かつて岡田斗司夫のニコ生に登場した際、スピリッツにて連載していた某作は本来なら山田玲司版の「アオイホノオ」を描くハズだった~的な発言が印象的だったんですが、「シカーダ」には改めてその想いが込められている気がするのでそういった意味でも注目して行きたいです
p.s.2
「シカーダ」作中には ”過去の名作” が実名で登場するのが特徴ですが、絵そのものは作画担当のバナーイ先生が描いてると思われるので ”オリジナル” とは違うんですが、普通に考えると「シカーダ」の世界観に合わせて ”名作を再現” してると捉えるべきなんでしょうが、実は(救いの書=聖書になぞらえるなら)”偽書” や ”偽典” といった仕掛けになってる可能性が微レ存…?
…考えすぎかな(^^;)
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