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日々あれこれ思いつきメモ

日記というよりもメモ? そんな思いつきを書いただけ……。

露天風呂で足元から温かみ染み入ってきたその瞬間吹き付けた冷たい風に頭が覚醒した瞬間に思いついたこと

2014-03-07 19:51:14 | 時事
最近、いや最近に限ったことではないのだけれど、
どこもかしこも居心地の悪さというか、淀んだ空気というか、
言葉にしにくい何か気味の悪いものが満ちているという感覚に陥ることがある。

その正体を様々な人達は“空気”と呼んでいるが、そもそも“空気”というものは日々変わっていく。
だから、人々は“空気”を読みながら生きているのだ。
僕は、そんな面倒なことから離れたいと思っている。
出来ることなら、そんなものから可能な限り逃げようと思っている。
でも、奴らはウザいくらいにつきまとってくる。
生活をしている限り、その“空気”とやらから逃げることは出来ないのだろうかと思うことがよくある。

その場その場の“空気”というものがあるとして、
それぞれの“空気”にどんな違いがあるのだろうかと思うことがある。
おそらく、それぞれに違いはあるにしろ、根底に何か共通するものがあるに違いないと思っていた。
もちろん、そんなことを毎日考えているわけではなく、ふっと頭をよぎるだけなのだが。

最近は沖縄にも温泉が出来て、僕が住んでいる那覇市のすぐ側の豊見城市の瀬長島にも昨年温泉施設が出来た。
ちょっと話は脱線するけれど、瀬長島の温泉はとてもいい景色でお風呂に入りながら慶良間諸島が見える。
飛行機の離着陸の音はウルサイけれど、それも一興と言えるかもしれない。
埼玉の実家に帰ってきて、まず温泉施設に行ってきた。
温泉は結構昔からあって、実家に帰ると必ずといっていいほど行っていた。
お湯に浸かり、一休みをして、またお湯に浸かって……。
僕にとっては最高のリラックスだ。
サーフィンもそれには勝てない。


そんなリラックスをしていた時、ふと僕の頭をよぎった言葉があった。
『二者択一』だ。


今という時代をもっとも象徴する言葉なんじゃないかと思った。

例えば、【原発】。
例えば、【普天間】。
例えば、【憲法】。

これらはすべて、是か非だ。
3つ目の案はないのだ。
3つ目、4つ目の案が出ても、それはいつの間にか立ち消えになってしまう。
そう、今は『二者択一』しかないのだ。

もしかしたら、今の日本は昔のイデオロギーの戦いであった冷戦構造を欲しているのかもしれないと思ってしまう。
確かに、冷戦構造の時代は特に考えることもなく、楽な時代だったと思う。
選択肢は2つしかなかったのだから。
どちらかに与すれば良かった。

でも、今は違う。
そして、“選ぶ”ものを失ってしまったから、再び“選ぶ”ものを作り出そうとしているようにしか思えない。
なぜか“つくる”ということをしようとする人はいない。
そのことが不思議でならないのだ。

今の“気味の悪い居心地の悪さ”は、そんな“選ぶ”ことを強いる世界(日本だけの話をしているけれど)に起因しているのかもしれない。
僕がいくらその“気味の悪い居心地の悪さ”から逃げようとしても、やはりどこかで選択を迫られる。
【原発】【普天間】【憲法】なんていう大きな問題じゃなくても、やはりどこかで選択を迫られる。
つまり、是か非か。
『是か非』だけの世界はヒステリックな世界になりがちだ。
世界は日々ヒステリックになっていっているように思える。

僕はヒステリックな世界、ヒステリックな人、ヒステリックなモノがとても苦手だ。
だから、僕はそんなモノたちから距離を置こうと思ったのだけれど。
やっぱり、ヒステリックなモノたちはあちこちにはびこっていて、結局距離を置いたつもりがすぐ側にいたりするのだ。

なぜだろうか?
せっかく冷戦構造という大きな枠組が外れたのに、そこに戻ろうとするのは。
まだ、僕らは自ら“つくる”準備が出来ていなかったのだろうか?
そう、僕が受けた時代の大学受験のように“選ぶ”ことしか出来ないのだろうか?

僕は“つくる”という道を選びたいと改めて思うのだった。


*一言言っておくと、何があったというわけではありません。
ただただ、頭をよぎった言葉について書いてみたら、こんな話になってしまいました。

沖縄上空から

2014-01-21 10:02:26 | 時事
ようやく那覇に戻ってきた。
那覇の街は春日部市よりも遥かに明るく、見える星の数もとても少ない。
僕の住む場所は特に中心部であるため、余計に明るい。
先日、テレビで宇宙ステーションの若田さんが宇宙から見える夜の日本の姿を中継していたが、驚いたのは沖縄本島、特に那覇の明るさだった。
その明るさは他の大都市と変わらぬ光を発していた。
それをみたいとき、星が見えないのも仕方ないと思ったものだった。

さて、名護市長選挙では稲嶺氏が勝利したが、お金に目がくらまなかった名護市民には敬服をする。
名護に500億円という報道があったけれど、
これまで沖縄が基地の代わりに手にした莫大なお金が有効に使われたケースはあまりないような気がする。
もちろん、必要な道路整備もあっただろうけれど、
沖縄の人に落ちたお金なんかはほんの少しだと思う。
多くは沖縄を経由して、また東京に戻っていくのだ。
まぁ、この話のどこまでが本当なのかは知らないけれど。
沖縄の人の多くはそのように考えているようだ。
だから、500億円という金額なびかなかったのだと思う。
こんなことを言うと怒られるだろうけれど、
名護市に500億円使おうが、その倍使おうが、名護市は那覇市にはなれない。
なぜ名護市が栄えなくなったか?
それは人が流出したからだ。
いくら観光客を呼び込んだところで、人が住まない街は衰退していく。
もちろん、名護市が衰退しているとは言っていない。
でも、閑散としているのは確かだ。
そう、中途半端なというか、大都市への通勤圏から離れた地方の小さな市という感じ。
そこは駅前には小さなロータリーがあって、少し歩くとシャッター商店街かあって、さらに行くとちらほらと住宅が並ぶ。
その先は田畑か何か。
名護市はそんな街に似ているように見えて仕方ない。
実際はそこまで閑散とはしていないし、大きなスーパーもあれば、多少は閑散とした感じはあるけれどシャッターはしまっていない。

そんな街に人を呼ぶには産業を生むことか手っ取り早く、そんなことも懸命にやってはいるのだがあまり身を結んでいるようには思えない。
さらに言えば、残念なことに観光客は名護市を通過していってしまう。
そんなところに紐付きのお金をいくら注いでもどうにもならない。
使い道が決まったお金なんかは一部の企業にほんの少しが入るだけなのだから。

僕は思う。
名護市は那覇市にはなれない。
名護市は名護市のままてでいいのではないかと。
名護市ならではの発展のしかたを考えるべきで、
多分、それはお金以前の話なのではいかと。

これから、名護市長は辺野古の件でいろいろと大変だろうとは思うけれど、
辺野古問題だけで選ばれたと思っては行けないと思う。
当然500億円の話はなくなったはずだ。
今の制度では、国から得られる地方交付税がないと市町村の行政はたち行かなくなる。
それとも戦わなければいけない。

僕は名護市に特に思い入れなどないけれど、国からのお金をあてにしないで発展していく道を探さなければいけないのだろうと思う。
ただ、思うのは名護に那覇のような明かりはいらないと思う。
名護ならではの明かりを模索するべきだと思う。

それにしても沖縄は問題の絶えない場所だ。
普天間はどうするのか?
どこが引き受けるのか?
何の見返りもなく返還されることはないだろうから。
そもそも日本政府が普天間を必要としているのたから。

なぜ、僕は名護のことを書いているのだろう?
なんとなく、こんなことを書いてしまった。
僕らしくないな。
本当星のことを書くつもりだったのに。
これは帰りの飛行機の中で書き始めたもの。
読み返すと、あまり理論的とは言えないなと思う。
でも、そのまま投稿してしまおう。
何も結論も解決策のないけれど。
もしかしたら、批判を浴びるかもしれないけれど。

極々偏見に満ちた、身勝手でとってもとっても 飛躍した私見

2013-12-04 16:33:26 | 時事
先日のこと。夜7時頃にオンの散歩のために奥武山公園に行った。
ゆっくりと散歩しているおじいちゃんとおばあちゃん、
おそらくダイエットのために走っているだろう太り気味の男性、
常日頃トレーニングしているのであろうアスリート風の人、
健康のためにウォーキングをしている人たち……。
つい1週間前とはまったく違った光景が広がっていた。

もちろん、NAHAマラソン前と後のことだ。
NAHAマラソン前の公園はひどく混み合っていた。
マラソンの前だから当然のことだが、ジョギングコースは人でいっぱいだった。
僕は、オンの散歩のために、うちから一番近い奥武山公園に行くのだが、
ジョガーやランナーの邪魔にならないように、
ジョギングコースの外側、公園内だけどもほとんど外周に沿って散歩していた。
もちろん、公園はみんなのものだからマナー違反さえなければどのように使ってもいいと思う。
ペットの散歩をさせる人は、ペットが人の邪魔にならないように気をつけ、糞の始末も当然する。
では、走る人は?
確かにジョギングコースは人であふれていた。
早いペースで走る人にとっては邪魔で仕方なかったのだろう。
そして人が走らないコースをものすごいスピードで走っていた。
危うくオンを踏まれそうになったことが何回もあった。
一度は間に合わないと思って、身を挺して守ったこともあった。
僕は、別にどこを走ってもいいと思っている。
でも、せめて周りに気を使って欲しい。
いや、使うべきだ。
そういう人に限って、一言も言わず走り去っていく。
まるで、こっちが邪魔だと一瞥して。

僕は喫煙者だ。
喫煙者は今とても肩身の狭い思いをしながら生活している。
もちろん、多くの人がマナー違反(僕も含めて)をしていたから、規制されるのも仕方ないのだが。
今は、本当に気を使ってタバコを吸っている。
吸っても許されている店ですら、わざわざ人のいない場所に移動して吸う。
まあ、それも規制されて初めて気付かされたことなのだが。
(僕はどうやら自力ではタバコをやめることが出来ないので、禁煙外来にでも行こうかと思っている。さすがに1ヶ月以上もノドが痛くて咳が止まないのはタバコのせいもあるはずだと思うので)

最近は、その矛先が自転車に向かっているようだ。
この間のニュースで初めて12月から法制が改正されたことを知った。
僕は自転車に乗らないから、その規制がどれだけの不便を伴うのか分からないのだけれど、安全性を考えるならば仕方ないのかもしれない。

でも、そうであるならば、走る人も同じではないか。

僕には、走る人と走らない人、自転車に乗る人と乗らない人、タバコを吸う人と吸わない人、さらにはクルマに乗る人と乗らない人。

なぜ、互いに邪魔者扱いするのだろうか?
しかも、それがとてもヒステリックなカタチで表れる。

一昔前にチェ・ゲバラのグッズがブームになったが、
ゲバラが何を成し遂げ、なぜ今だに語り継がれているのかをちゃんと知っているのだろうか?
ゲバラの言葉を一言でも胸に刻まれた人が少しでも増えれば、現代はもう少し違う風景が見れたのではないだろうか。

何か書こうと思っていたのだが、忘れてしまった。
もっと飛躍した話を。

でも、こんな身勝手な話でも、
「デモをテロと同じ」という極論よりはまだマシだろうと思う。

先立っての宮崎駿監督の『風立ちぬ』へのクレームの件

2013-08-21 09:32:37 | 時事
昨日、Facebookで書いたが、勢いに任せて書いたため少しばかり論点がズレていたので、
改めて書いてみました。今回は、より極端に、より飛躍した話となっています。


結論から言うと、『人は非難、批判、悪口というのが好きだ』ということ。
人を賛美するより、悪口を言うのは、昔より人の性である。

まず身近な例からいうと、仕事帰りに同僚と飲みに行って上司の悪口や愚痴を言う。
最近の若者はお酒離れが進んでいるというが、こんなことは昔からよくあったこと。
そして、それを人は楽しんでいる。ただ憂さをはらしているしているだけではない。

他にも、何か問題を起こした人への非難、批判は共通の話題としてうってつけだ。
「あの人すごいよな」という話より、「あいつは酷いよな」という話の方が間違いなく盛り上がる。

ここから話は変わる。
つい最近話題になったナチスだが、ワイマール憲法うんぬんの話よりも遥かに大事なことがある。
なぜ、ヒトラーが、ナチスが熱狂的にドイツ国民に受け入れられたか? だ。
当時のドイツはかなり疲弊していた。
第一次世界大戦の敗戦のより、莫大な、まず支払うことが不可能な賠償金を課された。
国民の負担は当然大きくなり、そこへ世界大不況の影響をもろに受けた。
その他さまざまなことが起こり、ドイツ国民の不平不満は限界に来ていた。
ヒトラー、ナチスはそこで絶妙な政策を打ち出した。
政策という代物ではないが……。
ヒトラーとナチスは、ドイツ国民の大多数を占めるゲルマン民族に共通の敵、
共通の非難する相手、共通の批判する相手を作り出したのだ。
そして、ゲルマン民族の優位性をうたったのだ。
つまりは、不満のはけ口を作ったのだ。
そもそも人は他人を非難、批判、悪口をいうことが好きな生き物である。
その好きなことをさせたのだ。
だから、ヒトラー、ナチスは熱狂的な支持を得たのだ。

余談だが、先立っての憲法の話だが、ナチスは憲法を変えていない。
ワイマール憲法に従って、憲法を無効ににするような法律を作ったのだ。
合法的に。つまり、ワイマール憲法はその法律の上にありながら、その法律によって無効化されるという奇妙な状況を作り出したのだ。

少し、話が大きくなったので身近な問題に引き戻す。
「人を非難、批判、悪口をいうのが好きだというのが人間である」ということが前提となるのは明白なことだ。
そもそも、悪口を一切言ったことのない人というのはほぼいないだろう。
多少なりともそれはあるはずだ。
そして、それを楽しいと思った、それで盛り上がったという経験があるというのはほとんどの人が当てはまるだろう。

これはいじめの問題にもつながる。
今、テレビのニュースや新聞、ネットのニュースでいじめが話題に上らない日はない。
でも、いじめなんていうものは昔からあったことだ。
人は徒党を組んで、他人を非難し、批判し、悪口という。
なぜなら? それは好きだから。
では、なぜ今ことさらに問題になのか?
それは歯止めがきかないからだ。
歯止めがきかないからエスカレートしていく。
そして、いじめは殺人へと、自殺へと追い込んでいく。
昔は何らかの歯止めがきいていた。
だから、今ほどには問題にはならなかった。

その昔、魔女裁判というものがあった。
それは教会が自らの存在意義を守るために、魔女という共通の的、非難する相手、批判する相手、悪口、陰口をいう相手を作り上げた。
そして、最終的に処刑という行為に出た。
これが、歯止めがきかず、エスカレートした例のひとつだ。


さて、先立っての宮崎駿監督の『風立ちぬ』の喫煙シーンに関する批判。
これは正に歯止めがきかなくなりつつある、エスカレートしつつある例のひとつだ。
世論が喫煙に対して批判的になっているのをいいことに、まるで自分たちが力を持ったかのように勘違いしているのだ。
そして、憲法で保障されている「表現の自由」を侵してもいいのだと思っているのだ。
なぜなら、自分たちが正しいと思い込んでいるから。
そして彼らにとっての共通の敵、共通の非難する相手、批判する相手、悪口をいう相手である喫煙者に対しては何をしてもいいのだと思い込んでいるのだ。

今、個人、団体、国家はさまざまなことに対して歯止めがきかなくなりつつある。
自制心を失いつつあるのだ。

現代社会のキーワードは“歯止め”ではないだろうか。

オスプレイを見た!

2013-02-27 10:17:12 | 時事
オスプレイが那覇上空を飛んでいるということは知っていたし、その音も聞いたことはあった。
でも、実際に飛んでいるのを見たことはなかった。

昨日のこと。家のそばで車に乗ろうと思っていたところ、大きな音が聞こえてきた。
また何か飛んでいるなと思い、空を見上げるとあの独特な双発の飛行機が飛んでいた。
プロペラは斜め上を向いて飛んでいて、あれがどんなモードなのかは分からなかった。
それにしても、予想以上に低空飛行をしていることに驚いた。
なんと言ってもプロペラの向きまでがはっきりを見えたくらいなのだ。
しかも、おそらく方向的に市街地の上空を飛んでいた。
沖縄では人口密集地である那覇市の市街地を低空飛行で飛ぶというのは、いかに米軍がこれまでの失敗(事故)を反省していないかを証明するものだと思う。
沖縄国際大学の事故の記憶がまだ古びていない状況の中、
危険性が危惧され、ハワイでは配備そのものは中止となったオスプレイが好き勝手に飛んでいる。
これでは、沖縄の人たちが差別と叫んでも仕方ない部分もある。
(僕は差別ではなく、無関心だと思うが……)

そんな中、1959年に沖縄県石川市に米軍の戦闘機が小学校に墜落した事件を映画化した「ひまわり」という作品が公開されている。
東京ではすでに公開が終わってしまっているようだが、全国各地で一般公開ではなく、市民会館のような場所で1回限りの公開という形で上映されるようだ。
というのも、この作品は通常の映画のような形での配給会社がついていない。
だから、映画館で上映されることもなく、それぞれ地方の小さな映画センターのようなところが上映権を1回限りなどという形で買い取っているのだ。
実は、沖縄県内でも同じような状況で、他都道府県よりは上映回数は圧倒的に多いが、1箇所での上映の日数はごく限られている。
1月末に1回、2月中旬に2回あったが、僕はちょうど実家に帰り、そして高知へ行っていたので観ることが出来なかった。
3月中旬にもあるので、その時に観に行くつもりだ。

この作品、観ていないので何とも言えないのだが、制作費を製作協力券という形の寄付を集めて製作されている。
僕は知らなかったので、寄付とかしていないが、その代わりといってはなんだが、映画を観に行くことで協力したいと思っている。

ただ、このような実際にあった事件や事故を題材にした映画は、制作サイドの視点が出来る限り客観性を持っていないと、ただの駄作になりかねない。
役者は感情を表現するべきだと思うが、カット割りや編集などでそれをことさらに強調すると、ただの悲劇の作り話になってしまいかねない。
おそらく、多くの人たちはそれほど昔の、しかも返還前の沖縄で起きた事件のことなど知る由もない。
だから、この映画そのものに観るだけの価値があるし、作る必要性もある。
僕は、この作品自体が怒りに満ちていないことを、お涙頂戴になっていないことを、余計な演出がされていないことを祈るばかりだ。
なぜなら、その方がより真実は伝わるからだ。