最近、いや最近に限ったことではないのだけれど、
どこもかしこも居心地の悪さというか、淀んだ空気というか、
言葉にしにくい何か気味の悪いものが満ちているという感覚に陥ることがある。
その正体を様々な人達は“空気”と呼んでいるが、そもそも“空気”というものは日々変わっていく。
だから、人々は“空気”を読みながら生きているのだ。
僕は、そんな面倒なことから離れたいと思っている。
出来ることなら、そんなものから可能な限り逃げようと思っている。
でも、奴らはウザいくらいにつきまとってくる。
生活をしている限り、その“空気”とやらから逃げることは出来ないのだろうかと思うことがよくある。
その場その場の“空気”というものがあるとして、
それぞれの“空気”にどんな違いがあるのだろうかと思うことがある。
おそらく、それぞれに違いはあるにしろ、根底に何か共通するものがあるに違いないと思っていた。
もちろん、そんなことを毎日考えているわけではなく、ふっと頭をよぎるだけなのだが。
最近は沖縄にも温泉が出来て、僕が住んでいる那覇市のすぐ側の豊見城市の瀬長島にも昨年温泉施設が出来た。
ちょっと話は脱線するけれど、瀬長島の温泉はとてもいい景色でお風呂に入りながら慶良間諸島が見える。
飛行機の離着陸の音はウルサイけれど、それも一興と言えるかもしれない。
埼玉の実家に帰ってきて、まず温泉施設に行ってきた。
温泉は結構昔からあって、実家に帰ると必ずといっていいほど行っていた。
お湯に浸かり、一休みをして、またお湯に浸かって……。
僕にとっては最高のリラックスだ。
サーフィンもそれには勝てない。
そんなリラックスをしていた時、ふと僕の頭をよぎった言葉があった。
『二者択一』だ。
今という時代をもっとも象徴する言葉なんじゃないかと思った。
例えば、【原発】。
例えば、【普天間】。
例えば、【憲法】。
これらはすべて、是か非だ。
3つ目の案はないのだ。
3つ目、4つ目の案が出ても、それはいつの間にか立ち消えになってしまう。
そう、今は『二者択一』しかないのだ。
もしかしたら、今の日本は昔のイデオロギーの戦いであった冷戦構造を欲しているのかもしれないと思ってしまう。
確かに、冷戦構造の時代は特に考えることもなく、楽な時代だったと思う。
選択肢は2つしかなかったのだから。
どちらかに与すれば良かった。
でも、今は違う。
そして、“選ぶ”ものを失ってしまったから、再び“選ぶ”ものを作り出そうとしているようにしか思えない。
なぜか“つくる”ということをしようとする人はいない。
そのことが不思議でならないのだ。
今の“気味の悪い居心地の悪さ”は、そんな“選ぶ”ことを強いる世界(日本だけの話をしているけれど)に起因しているのかもしれない。
僕がいくらその“気味の悪い居心地の悪さ”から逃げようとしても、やはりどこかで選択を迫られる。
【原発】【普天間】【憲法】なんていう大きな問題じゃなくても、やはりどこかで選択を迫られる。
つまり、是か非か。
『是か非』だけの世界はヒステリックな世界になりがちだ。
世界は日々ヒステリックになっていっているように思える。
僕はヒステリックな世界、ヒステリックな人、ヒステリックなモノがとても苦手だ。
だから、僕はそんなモノたちから距離を置こうと思ったのだけれど。
やっぱり、ヒステリックなモノたちはあちこちにはびこっていて、結局距離を置いたつもりがすぐ側にいたりするのだ。
なぜだろうか?
せっかく冷戦構造という大きな枠組が外れたのに、そこに戻ろうとするのは。
まだ、僕らは自ら“つくる”準備が出来ていなかったのだろうか?
そう、僕が受けた時代の大学受験のように“選ぶ”ことしか出来ないのだろうか?
僕は“つくる”という道を選びたいと改めて思うのだった。
*一言言っておくと、何があったというわけではありません。
ただただ、頭をよぎった言葉について書いてみたら、こんな話になってしまいました。
どこもかしこも居心地の悪さというか、淀んだ空気というか、
言葉にしにくい何か気味の悪いものが満ちているという感覚に陥ることがある。
その正体を様々な人達は“空気”と呼んでいるが、そもそも“空気”というものは日々変わっていく。
だから、人々は“空気”を読みながら生きているのだ。
僕は、そんな面倒なことから離れたいと思っている。
出来ることなら、そんなものから可能な限り逃げようと思っている。
でも、奴らはウザいくらいにつきまとってくる。
生活をしている限り、その“空気”とやらから逃げることは出来ないのだろうかと思うことがよくある。
その場その場の“空気”というものがあるとして、
それぞれの“空気”にどんな違いがあるのだろうかと思うことがある。
おそらく、それぞれに違いはあるにしろ、根底に何か共通するものがあるに違いないと思っていた。
もちろん、そんなことを毎日考えているわけではなく、ふっと頭をよぎるだけなのだが。
最近は沖縄にも温泉が出来て、僕が住んでいる那覇市のすぐ側の豊見城市の瀬長島にも昨年温泉施設が出来た。
ちょっと話は脱線するけれど、瀬長島の温泉はとてもいい景色でお風呂に入りながら慶良間諸島が見える。
飛行機の離着陸の音はウルサイけれど、それも一興と言えるかもしれない。
埼玉の実家に帰ってきて、まず温泉施設に行ってきた。
温泉は結構昔からあって、実家に帰ると必ずといっていいほど行っていた。
お湯に浸かり、一休みをして、またお湯に浸かって……。
僕にとっては最高のリラックスだ。
サーフィンもそれには勝てない。
そんなリラックスをしていた時、ふと僕の頭をよぎった言葉があった。
『二者択一』だ。
今という時代をもっとも象徴する言葉なんじゃないかと思った。
例えば、【原発】。
例えば、【普天間】。
例えば、【憲法】。
これらはすべて、是か非だ。
3つ目の案はないのだ。
3つ目、4つ目の案が出ても、それはいつの間にか立ち消えになってしまう。
そう、今は『二者択一』しかないのだ。
もしかしたら、今の日本は昔のイデオロギーの戦いであった冷戦構造を欲しているのかもしれないと思ってしまう。
確かに、冷戦構造の時代は特に考えることもなく、楽な時代だったと思う。
選択肢は2つしかなかったのだから。
どちらかに与すれば良かった。
でも、今は違う。
そして、“選ぶ”ものを失ってしまったから、再び“選ぶ”ものを作り出そうとしているようにしか思えない。
なぜか“つくる”ということをしようとする人はいない。
そのことが不思議でならないのだ。
今の“気味の悪い居心地の悪さ”は、そんな“選ぶ”ことを強いる世界(日本だけの話をしているけれど)に起因しているのかもしれない。
僕がいくらその“気味の悪い居心地の悪さ”から逃げようとしても、やはりどこかで選択を迫られる。
【原発】【普天間】【憲法】なんていう大きな問題じゃなくても、やはりどこかで選択を迫られる。
つまり、是か非か。
『是か非』だけの世界はヒステリックな世界になりがちだ。
世界は日々ヒステリックになっていっているように思える。
僕はヒステリックな世界、ヒステリックな人、ヒステリックなモノがとても苦手だ。
だから、僕はそんなモノたちから距離を置こうと思ったのだけれど。
やっぱり、ヒステリックなモノたちはあちこちにはびこっていて、結局距離を置いたつもりがすぐ側にいたりするのだ。
なぜだろうか?
せっかく冷戦構造という大きな枠組が外れたのに、そこに戻ろうとするのは。
まだ、僕らは自ら“つくる”準備が出来ていなかったのだろうか?
そう、僕が受けた時代の大学受験のように“選ぶ”ことしか出来ないのだろうか?
僕は“つくる”という道を選びたいと改めて思うのだった。
*一言言っておくと、何があったというわけではありません。
ただただ、頭をよぎった言葉について書いてみたら、こんな話になってしまいました。