拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  無学者による日本文化論

2024年01月17日 | 東洋自分なり研究所

  たぶん学歴コンプレックスが原因だろうか? 『学者』とか『〇〇論』とかのワードを駆使したい衝動は・・・病的ですらある。

 

  私の無学は、己の『還暦スキャン』するまでもなく筋金入りで『(お情け)高卒』以来、二つの専門学校には行ったものの

  どれもみな中途半端で、『プロ』・・・と称するレベルには到らず、スイスに渡欧しても資格のいらぬ『観光ガイド』『引越稼業』などで

  糊口(のりこ)をしのいでいるうちに、定年退職を迎えてしまったのだ。

 

  それでも今日のブログ・タイトル『無学者による日本文化論』のような一見、知的雰囲気を醸すタイトルは

  『馬骨』を自覚する自分としては無謀を通り越して、正直、失笑を禁じえないが、『遊戯三昧』とうそぶいては、『自分なり論』を

  展開できる、ブログの存在はじつに有難い、天からの贈り物なのである。

  

  前置きはこのくらいにして本題に入る。

  私の『無学』は、30〜40歳に自分なりに打ち込んだ『禅修行』をベースにしている。

  その当時、私は自分が『無』を学ぶ者である・・・という自覚はまったく無く、ただひたすら数息観やら、『公案』に直面していたわけであるが

  今だから言えるが、それって『無』を『禅(全・然)』する行為以外の何ものでもなく、その意味で私は『無学者』であり『禅者』であった。

  そんな私に言わせれば、『日本文化』は『無』を基にした『空』の展開を可視化した文化なのである。

  それについての詳細は、本年度の『東洋自分なり研究所』が探究しする課題として、折々発表してゆきたいと思う今日此頃。

   (・・・・なんだったんだ、大げさなタイトルは? ) 無学な者と、『無』を学ぶ者・・・を掛合わせた爺駄洒落だね。

 

                

                1月7日に一撮した写真。 北斎が描く富士に似た岩を、湖畔に見つけた目出度い風景

  



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