拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  慈悲の『悲』

2024年06月23日 | 東洋自分なり研究所

  仏教とは『慈悲』と『智慧』・・・である、とこれまで何度も(書物)などによっても教えられてきた・・・。

  キリスト教では『愛』という表現を全面的に押し出しているところを、何故『仏教』は『慈悲』と言うのだろうか?と、うっすら思っていた。

 

  最近私は、『AI』の人間の存在を無視したような進展に危惧をいだいて、『AI』にこそ、駄洒落じゃなくて『愛』を真っ先に、徹底的に

  ディープラーニングさせるべき・・・であるという思いで『慈悲』ではなく『慈愛』という言葉が『The(ジ)AI』時代にはふさわしいかな?と、考えたりしていた。

 

  しかし、慈悲の『悲』という字に焦点を当てて考えてみるに、我らが祖先の仏教徒が安易に『悲』の字を選択しているわけでは無い事に思いが至る・・・。

 

  『慈悲』というと、上からの目線で同情されているような心理が働いて、反発感を抱く・・・というような面があるのかもしれないが

  『悲』という言葉が『本来の心に非ず・・・それがなんとも悲しい』という心持ちが自ずから湧いてくるのが『慈悲』であるならば

  そこに『悲』の原点があるならば、主語のない『慈しみ』の心の表現として『慈悲』という言葉は、もっともであるように思うのだ。

 

  仏教では、誰かから教えられる『愛』ではなく、自ずから『自己の内』に湧いてくる『侘び寂び』を慈しむ心を感じとるから

  『慈悲』なのだと思う・・・。 そして『侘び寂び』の原点はこれを慈しむ、『慈悲』にあると言うわけだ。

 

            

  昨日、6月22日はヨーロッパ全国的に『音楽の日』で、相方の誘いで、ローザンヌの音楽学校の10〜15歳(?)ぐらいの

  子供たちの振り付けのある演奏を大いに楽しんだのだが、一人ひとりの子供たちの個性を観るにつけ、彼らが将来突き当たるであろう

  『壁』に『無心』で体当たりしてもらいたい・・・というような、孫を見守るジジイの心境で眼が潤おうような気分であった図

 

  



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