拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  琴線は『観音』に響命して・・・

2024年05月30日 | 東洋自分なり研究所

  昨日、バイオリニストの友人が教授する生徒の演奏を聞きに行こう・・・と、ローザンヌのコンセルバトワール(音楽学校)に久々に行った。

  しかし、相方のいつもの勘違い+メモ間違いで演奏は聞くことができなかったが、音楽学校のその建築学的な美しい校舎、そこに通う子供達がイキイキ

  している様子に、私はいつものようにワクワク興奮しながらも、同時に、貧乏性のヒガミ根性、嫉妬心がワア〜っと出てきたとき、

  それこそ何も無い、ガラ〜ンとした居士林の禅道場と比較してしまった。

         

             写真は1991年、渡欧するために記念に撮影した居士林の様子。

             いま考えると、一見何も無い道場・・・が、とんでもない! 計算し尽くしたのでは?と思えるほど何もかも在った。

          

  子供たちが、バイオリンなどを革ケースに入れて持ち運びする姿を観た時は、『高価な楽器なんだろうなぁ…』と嫉妬しながら

  私の心には、金で買えない『琴線』が『あったっけ… 』と、安心した自分がいた。

 

  考えてみると、私のブログ『拈華微笑』の概要として 『我が琴線に触れる 森羅万象を写・文で日記す』と、書いて

  『琴線』という言葉を何気に使っていたが、今思うに『東洋自分なり研究所』的には偶然ではなかったのだと思う。

 

  調べてみると、このブログを書き始めて今年でちょうど15年目で、当時の私の『琴線』について 2009年11月30日のブログ記事〜 琴線〜1

  ここに書いてあったが、主張している事が現在とそれほど変わっていないところが面白い。

 

  我々が持っている『琴線』というのは、私が弾き鳴らそうとして、鳴るモノではなく、慈愛(悲)の波動に響鳴したときに勝手に響く音色のことで

  それを仏教徒は『観音』と呼んでいるのだと思う。

 

  先日、ある動画で音楽家の岡野弘幹氏が『響鳴』の代わりに『響命』という造語を使っていたが、

  その『命』も『一つ叩く』の『今・ここ』の『観音』の響きであり

  『諸行無常』で『一切皆苦』の時の流れを、我々は『観音』の響きに導かれながら、苦も無く渡るだろう。

              

                 

                    観音菩薩は 日夜琴線をかき鳴らして いらっしゃる・・・ 

 



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