拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  『未知』に『道』

2024年06月13日 | 東洋自分なり研究所

  『AI』が物凄い勢いで隆盛に向かう時代にあって、

  私、馬骨は、釈尊がおよそ2500年前に『悟り』、その後の仏教徒によって延々と『悟り』が伝えられ、

  ついにそれが日本では『道』文化として日常生活にまで活用されているにもかかわらず、肝心要の『悟り』というものが顧みられず、

  有耶無耶なまま『仏壇』に放置されている現状は、大拙氏の言葉を待つまでもなく、『宝の持ち腐れ』・・・であると痛感する今日此頃。

 

  『道』というものが、我々人間にとって、どんな時代が来ようとも『常に最新の発見』なのであり、逆にどんなに『優れて最新のAI』であっても

  それは『道』を歩む我々の優れた一つの『道・具』に過ぎないことを知ったうえで、それを上手く活用する気概が必要であろう。

 

  『 未知ゆえの「道」、それでも「道」は未知に満ちている・・・』という、いつものオヤジ駄洒落で『言葉遊び』に戯れていると

  今現在最も注目される『AI』にしても、古(いにしえ)の『道』にしても、『未知の恐怖』に対する人間による発明、発見という点では『同じだろう』とした時

  『道具』という言葉が象徴するように、『AI』などは『道』を円滑にゆくための我々の『道具』に過ぎない・・・というような考えが浮かび、

  であるならば、主となる『道』の探求が何よりも重要であることが解る。

 

  釈尊の『悟り』のことを考える時、師を持たなかった釈尊が、自身の『悟り』を『これだ!!』と、徹底的に腑に(不二)落ちるまでは、

  死んでも許さなかった自分があり、そしてそれが成就したとき、主語の無い自分(自他不二=無我)が『観!音』と、言葉にならない『直観』によって

  頷いた時、初めて釈尊自身は自己の『悟り』に納得して、自他ともに『仏陀』(目覚めた人)・・・と名乗ることを許したのだろう。

 

  私の考える『道』は、自我あっての無我で、だからこそ『自他不二』の慈愛に目覚める事ができる『道』で、しかもそれでもなお、『未知』は

  『未知』であるところに、人生の面白さ『遊戯三昧』というような事に満ちているのだ・・・と思う。

 

              

               どんなアンポンタンでも『観自在菩薩』になれる時代はくるのか?!の図



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