拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  『仕・事』その2

2024年05月21日 | 東洋自分なり研究所

  生来の貧乏性のためか、いまだに仕事に出かけない自分の立場に・・・これでいいのかいナ?と、ふと思ったりする・・・。

  かといって、当時のように朝5時半に起床し、7時前の電車にのって8時には仕事開始、引越しシーズン中だと残業が定番で18〜20時の帰宅電車になり

  帰宅は19時〜21時・・・というローテーションに身体が耐えられるかどうか? 一度なまった身心の現在、よくやったよな〜と、当時を振り返る私。

 

  今のように身心に余裕のある立場から、改めて『仕事』というものを考えると『仕事』とはなんだったのか? と、なんとはなしに考察。

 

  『仕事』とはもちろん、生活を成り立たせる為の収入を得る、という目的が基本にあるが、同時に『やりがい』というようなものを見出そうと

  するわけであるが、私のように雇われる身としては、様々な制限がある中、常に妥協点を模索していただろう。

  

  私のように『修行期』を持った者とすれば、『仕事』は修行の成果を発揮する場であったかと思う。

  後に仕事の『仕』の字を注目することで、『仕事』の『仕』は禅修行で言うところの『人をして(人偏)+・ー=0(互いの尊厳尊重)』を仕合う事が

  『仕事』であると解してみれば、『仕事』は、じつに生活の基本であったなぁ・・・とつくづく思う。

  参考までに 2023年10月13日のブログ記事〜『仕・事』

 

  また、仕事の『仕』は『人をして+・ー=0』と書き表し、ゼロとは『今・ここ』の『事』にほかならず、どんな仕事であれ、

  そこに全力を尽くし、人生の大半の時間を誰かに『仕える』事で自他の喜びを生み出す・・・行為の『仕事』は、尊い行為であったと思う。

 

  禅修行は『今・ここ』という事を、徹底的に身を持って学ぶ『覚問(がくもん)』であり、

  『仕事』という形で実地社会で、それを活かしてゆくのが『禅』なのだと思う。

 

  海外在住の私達が日本に帰国してまず、嬉しいのは『いらっしゃ〜い』の店員さんの掛け声。

  ここに『仕・事』の『仕』の原点があり、互いの『安心』を確認し、『尊厳尊重』の精神が現れがある。

  これって日本にいるとじつに当たり前であるが、海外ではなかなかそうではないと、誰もが思い知らされる事柄ではある。

 

        

         昨日、スイスの桃源郷で見かけた、馬の『アイ・マスク』・・・うるさい蝿から眼を守るマスクを初めてみたが、全家畜に備えてあげたい!

 

 

 

 



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