『接心』という何気ない言葉・・・蝦蟇(ガマガエル)が『情けない自分』に逃げることなく対面し続ける中で『謙虚心』という油汗を流す図
若き日にあれだけ散々やり尽くした『接心』について、一度も考察してなかった迂闊に急に気付いた。
『坐禅』という言葉を知っている人でも、『接心』・・・となると、知らない人がたぶん多いのではないだろうか。
一度でも『接心』というものに参加した人であれば、それこそ死ぬまで忘れ得ぬ『事件』であったに違いなく、それほど強烈な体験といえる。
馬骨的に言わせてもらえば、『接心』とは禅システムが生んだ、『諸行無常ツアー』というべく、人間にとって最高の『慈悲行』・・・という事になる。
普通、人間というものは『苦痛』や『不快』な事をできるだけ避けて過ごそうとする生き物で、そこに何の疑問も持たないし、誰もそれに文句を言わない。
それはある意味、人間の盲点・・・である、と言わんばかりの『接心』という『行法』を、仏教宗派の一派である禅宗は生み出したのだ。
それは上手くやれば、仏教原理である『諸行無常・諸法無我・涅槃寂静』の三法印すべてを『体験可能なツアー』ともなるのだ・・・。
しかし、禅僧にしても誰もそんなこと言ってくれなかった、なぁ・・・。
そこからして『諸行無常ツアー』、またの名を『一切皆苦ツアー』の『接心』が始まっていた・・・とも言える。
私の最初の接心は、私が28、9歳の頃であった。 北鎌倉、円覚寺居士林の冬期『学生大接心』で、主に大学生を対象に一週間の坐禅修行であった。
私にとっては、まさに『諸行無常 & 一切皆苦ツアー』の何モノでもなく、最終日を迎えた時は学生と共に涙に濡れ、二度とやるものか・・・と思ったことを覚えている。
それが、どういうわけか…それ以後 『居士林』のメンバーになり、『土日坐禅会』に繁く通うようになりその後の接心にも熱心に参加するようになったのである。
まぁ、怖いもの見たさ・・・というか、強烈な『好奇心』? 自分でもよくわからない心境に戸惑いながらも、その『未知』なるものが、なんであるのか?
ただ、自分にとって見過ごすことが出来ない『重要な何か』があるような『直感』・・・だけが頼りの『ツアー』が始まったのである。
このツアーで最初に観る風景は『苦痛』であった。ほんのわずかな時間で『足痛』がはじまり、やがて『不動痛』という『心の苦痛』と対面しなければならなかった。
この『苦痛』との対面は、正直私の心の中でショックとも言える『驚嘆!』であったはずだ。 『こんなに身近に苦痛がある!』という現実に驚いたのだ。
それが何年かかったか解らないが、『身体の苦痛』、『心の苦痛』というものが、『吐く息に意識を集中』する事である程度抑制することを学んでいったように思う。
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