拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  『坐』という結界

2024年09月01日 | 東洋自分なり研究所

  結界というと、今では『鳥居』を一番に思い浮かべるが、辞書でしらべると、そもそもは佛語ということらしい。

 

  禅をやっていた10年というのは、『無』にしか向き合っていなく、(というか実際は、『無』なんてことも思っていなかった正直… )

  その後の20年も娑婆のよしなし事に忙殺され結局ボーッと過ごしていたが、ボチボチ仏教を勉強すると、なんでかな?

  それこそ『自分なり』なんだけど頭にスーッと入るような・・・。

  まぁ、『無』やら『空』から仏教が膨らみ、経典ができたのだから、経典が書いてあることが解ることは・・・当たり前なのかな?(言うほど読んでないが)

 

  たくさんの外人さんが日本に来て、いたる所に眼にする『赤い鳥居』に感動し、おそらくそれが『結界』であるということを聞いて感心し

  『私は仏教より、神道が好き・・・』という外国人にも実際に出会ったが、その外人さん達も日本で坐禅している仏像をたくさん観ているはずで、

  それこそ『鳥居』よりよほど人に寄り添った『結界』なのであるが、そのようにはなかなか観ることが出来ないのが一般のようだ。

  かくいう私も、今頃になってそういう風に観ることができたわけなのだから・・・

 

  だからなのだろうか、私が、小さな寺から居士林に通うことに決心するとき、まるで『清水寺の舞台から飛び降りる…』ほどの覚悟がいたのは

  坐禅の『坐』が結界であることに気付いていたからなのだろう・・・。

 

  派手なデザインで人目を引く『鳥居』というのは、『結界』に至る門ここに在り・・・を一人知らしめんが為であることは、一目瞭然であるが

  まさか、仏陀の坐像が『結界の門』だなんて・・・。 そしてこちらの門は一旦入ってしまえば、『結界』も『門』も雲散霧消。

 

            

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