拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

 アイデンティティーと郷里(さとり)

2021年02月15日 | 観自在

  私は『悟り』は『郷里(さとり)』…という出来損ないオヤジ・ギャク的、『悟り』論(?)を提唱している。

  というのは、日本人にしても、こちらヨーロッパ人は特に、人間にとって最重要な問・類(自分とは?人間とは?死とは?・・・

  自分にとってアイデンティティーとは? etc.etc... 的問い)に対する答えを、自己の外に求めようとする。

  そもそものスタート地点からして真逆の方向へ向かっている…人々(それでも人は自然と気づくように意伝子が働いている)に

  気づくように声をかけてみる・・・というような思いを日本で禅修行で培ったからであると思う。

  『悟り』は人間にとって根源的なもので、宗教という枠組みで括られるものではない…であるから禅が世界的に『Zen』という

  形で普及している理由であり、私も仏教というべきところを『悟り=郷里(さとり)』と言い換えている。

  で、アイデンティティーであるが、私がこの言葉を意識するようになったのは、米国の小説家アレックス・ヘイリー『ルーツ』原作

  にしたテレビドラマが1977年に日本でも放送され非常に話題になった。内容はアフリカの黒人が奴隷としてアメリカに連れてこられ

  親子三代に渡る物語で、黒人奴隷問題を真正面から描いて社会現象といえる大反響をアメリカで起こした…そうだ。

  これが切っ掛けとなって、日本でも『アイデンティティー』というものが意識されるようになったように思う。

  国際結婚が増えてきた現在、ハーフの人々も増え、彼らが『アイデンティティー』の問題を意識する以外は、日本人にとって

  『アイデンティティー』とはスピリチュアルな問題として捉えられていると思う。

  私も冗談半分で、『江戸っ子の母と道産子の父を持つハーフ』だし、父親は蒸発して生まれてすぐ二人の母の間で育ち

  早くから『アイデンティティー』を求める環境にあった・・・と思っているせいか、昔からハーフの人々の境遇に興味があった。

  後に必然的偶然という形で私は『禅』と出逢った時、アイデンティティー…のことはすっかり忘れていたが、結局は『自灯明・法灯明』

  の法門を知らぬ間に通り抜けて『アイデンティティー』にたどり着いていた…。

      

         バレンタインデーの今朝、レマン湖畔を散歩している時見かけた風景。

         11時半頃で気温が1度、5人の男女が水浴…合掌しているからスピリチュアルなグループだろうか?

         真の自己を見いだせる事を祈って一撮(散歩しながら20分ぐらいして振り返って見たらまだやっていた・・・)

 

  



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