私たちのDNAには、愛人を探しだし、いつの日にか子孫を残そうとする本能の働きがあるが
じつはそれとは別に、より本質的なDNAの機能があり、それは『Doubt /Nature/Absolute』で、『疑う=?』という形で
身心の成長の過程で『?』が育まれ、それが『道』や『修行』へと人をして誘う要因となっている。
『修行』という正しいシステムに『縁』を結んだ幸運な人は良いが、そうでない大半の人々は
その機能を十分に活用することなく、またそういった機能が自分にあることも知らずに人生を終わってしまう。
私たちの祖先は、彼等が習得した機能をなんとか後世の人間に知らせようと工夫した結果の一つが『漢字』に込めたメッセージであった。
今日はその一つ『修行』という言葉を見てみよう。
『行ぎょう』を『修める』・・・で、『修行』と読ませる言葉。 では、『行』とは何か?ということがポイントになる。
ここは馬骨流解釈になってしまうが、『行』の『彳』は『ぎょうにんべん』で『常に二人』を表し、つまり『行』は『常に二人で行く』の意味。
『同行二人』という西国巡礼のお遍路さんが『弘法大師と一緒』に行く・・・というのと同じようなニュアンスであるが
『修行』で見つけなければならないのは『本来の自己』で、それが時に『師』となり『友』となって人生を共にする『自己』なのである。
私の『同行二人』はこんなオッサンであるが・・・(いないよりマシかも)
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